大政 奉還 と は。 大政奉還とは?簡単にわかりやすく説明するよ!

【大政奉還と徳川慶喜】彼の狙いと誤算、王政復古の大号令まで

大政 奉還 と は

新浪剛史氏(59)が社長に就任してから今年10月で丸4年。 創業家出身で次期社長に確実視されている鳥井信宏副社長(51)が50歳の大台を超え、実績を重ねているからだ。 ただ、新浪氏は信宏氏の社長就任に高いハードルを設けており、トップ交代にはなお時間を要するとの見方もある。 「次の世代が十分に育っていない…」 今から3年半ほど前の2014年6月、当時サントリーHDの社長で現会長の佐治(さじ)信忠氏(72)は記者団に、新浪氏を初めて創業家以外から社長に迎え入れる理由の一つについて、こう説明した。 創業者の鳥井信治郎氏のひ孫にあたる信宏氏は当時まだ48歳だった。 ちなみに佐治氏は創業者の孫にあたる。 佐治氏は「創業家で経営を続けられればベスト。 (信宏氏が)うまく成長してほしい」とも漏らしていた。 国内の巨大企業で40代のトップは珍しい。 取引先とのバランスなども考えれば、この時点では信宏氏の社長就任を断念せざるを得なかったようだ。 新浪氏は「リリーフ」 そこで白羽の矢が立ったのが、三菱商事出身の新浪氏だった。 佐治氏も、新浪氏について「国際的な人脈が豊富で、グローバル展開を目指すサントリーにぴったりだ」と評していた。 信宏氏は1966年3月生まれ。 慶応大を卒業し、旧日本興業銀行(現みずほ銀行)を経て、97年に31歳でサントリーに入社。 その後、43歳の時にサントリーHDの執行役員、44歳の時には中核子会社で飲料を手がけるサントリー食品インターナショナルの社長とサントリーHDの専務に就いた。 社内の実績積み上げ 2016年3月にはサントリーHDの副社長に就任し、とんとん拍子で出世の階段を駆け上がってきた。 それでいて「社員食堂にふらっと現れる、気さくで公平な人」(中堅社員)というのが社内評だ。 「本日は第二の創業記念日。 すべての利害関係者の期待に応えたい」。 13年7月、社長としてサントリー食品インターナショナルを株式上場させた信宏氏は会見でこう誇らしげに語った。 その表情からは、グローバル化の推進に向け資金調達力の向上にめどをつけたばかりでなく、株式上場という仕事を成し遂げ、社内での実績を積み上げたという自信もうかがえた。 さらに「信宏氏に実績を積ませるためでは」(大手ビール幹部)との臆測が飛び出す大幅な組織再編と人事が昨年あった。 サントリーHDは昨年4月、傘下のビール会社やワイン会社などを束ねる新会社「サントリーBWS」を設立。 社長をHD副社長の信宏氏が兼務したのだ。 ビール類シェアが向上すれば、「信宏氏の功績になる」(業界関係者)との狙いも透けてみえる。 実際、ビール類のシェアは確実に高まっている。 昨年7月にアルコール度数7%の第3のビール「頂」を発売すると、「安く酔える」などとしてスマッシュヒット。 第3のビールが出荷量を押し上げ、17年のビール類(発泡酒と第3のビールを含む)のシェアは前年比0.3ポイント増の16.0%と過去最高となった。 ライバルで業界首位のアサヒビールのシェアが0.1ポイント増(シェアは39.1%)にとどまり、2位のキリンビールにいたっては0.6ポイント減(同31.8%)となる中、サントリーは大善戦したといえそうだ。 ちなみにサッポロビールは0.1ポイント増(同12.1%)だった。 「早すぎず遅すぎず」 これだけの実績を重ねれば、信宏氏の社長就任も近いのではないか-。 昨年12月末、サントリーHDの本社機能がある東京都港区のオフィスで、新浪氏を直撃してみた。 --そろそろ社長交代はあるのか? 「早すぎず遅すぎずで、いつか分からない」 --どのタイミングでバトンタッチするのか? 「これまで佐治会長と私の二人三脚でやってきた。 二人三脚でなくても会社が回るような人材が育ってくれれば」 --信宏氏はBWSのトップとしてビール類のシェアを高めるなど、実績を重ねているが? 「もともと国内は強いのだから、もっと基盤を作らないと」 --具体的には? 「国内の大手ビールメーカーは4社なのだから、やはり目標は(全体の4分の1にあたる)シェア25%。 まあ、少なくても20%くらいはほしい」 国内ビール類のシェア20%-。 これが信宏氏に課せられた目標というのだ。 目標は創業家と共有 サントリーはもともと、ビールで後発組。 ビール離れが進む中、アサヒやキリン、サッポロとしのぎを削る厳しい市場環境の下で、昨年のシェア16%から4ポイント高めなければ20%には達しない。 第3のビールでヒット商品が出た昨年でも、シェアは0.3ポイントの上昇にすぎなかった。 このペースでシェアを高めても、単純計算では20%まで13年以上かかることになる。 いくら社是が「やってみなはれ」でも、ハードルが高すぎではないか。 だが、新浪氏は「(シェア20%の目標を)やり抜かないといけない」と意に介さない。 佐治氏と新浪氏は「昔からのゴルフ仲間」(佐治氏)で、取締役会など社内だけでなく、社外でも頻繁にコミュニケーションを取っているもようだ。 シェア20%という高い目標も、新浪氏だけで設定したわけではなく、佐治氏ら創業家とも共有しているとみられる。 もちろん、ビール類のシェア20%が実現できなければ、信宏氏の社長就任がないというわけではないだろう。 新浪氏だけでなく、佐治氏ら創業家側も信宏氏を真のリーダーに育てるため、あえて高い目標を課していることは想像に難くない。 信宏氏がいずれ社長に就任することは、誰もが認める既定路線。 信宏氏が実績を確実に積み重ねれば、佐治氏や新浪氏ら現経営陣が「やってみなはれ」と、社長を信宏氏に託す日が、そう遠くない将来やってきそうだ。 (大柳聡庸).

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5分で徳川慶喜について!なぜ大政奉還した?狙いは?子孫は今なにしてる?│れきし上の人物.com

大政 奉還 と は

概要 [ ] 江戸時代、徳川将軍家は日本の実質的統治者として君臨していたが「が将軍に国家統治を委任している」とするも広く受け入れられていた。 幕末になると朝廷が自立的な政治勢力として急浮上し、主に対外問題における幕府との不一致により幕府権力の正統性が脅かされる中で、幕府は朝廷に対し大政委任の再確認を求めるようになった。 3年()3月・翌元年()4月にそれぞれ一定の留保のもとで大政委任の再確認が行われ、それまであくまで慣例にすぎないものであった大政委任論の実質化・制度化が実現した。 幕末の朝幕交渉において再確認された「」を天皇に返上したのが3年(1867年)10月の慶喜による大政奉還だが大政奉還・時点で慶喜は征夷大将軍職を辞職していない。 10月24日に将軍職・辞職願を提出。 引き続き諸藩への軍事指揮権を有する将軍職・辞職が勅許され幕府が廃止されるのは12月9日のにおいてである。 大政奉還の目的は、内戦を避けて幕府独裁制を修正し、徳川宗家を筆頭とする諸侯らによるを樹立することにあった。 しかし大政奉還後に想定された諸侯会同が実現しない間に、を中核とする討幕派によるが起こったのである。 転じて、朝廷への政権返上の比喩的用法として、大企業の経営者人事で非創業者一族から創業者一族へ経営権が移る時にマスコミ等により用いられる。 経過 [ ] 公武合体と大政奉還 [ ] 幕末、主に開国・通商条約締結問題を巡り国論が分裂すると、それは幕府・朝廷間の意見の不一致という形で表面化した。 5年()にが幕府を介さずに直接下賜されたことに始まり、ついには朝廷が幕政改革や攘夷の実行を要求するなどの事態に直面した幕府は、朝廷と幕府の一致、すなわちの一環として大政委任の再確認・制度化を朝廷に要求するようになった。 究極的には幕府の命令すなわち朝廷の命令となす(「政令一途」)ことによる、幕府権力の再強化が目指されたのである。 一方で、に請われての改革を行ったや・ら開明的な幕臣などによって、大政奉還論(大政返上論)が早くから提唱されていた。 しかし、幕府は朝廷の攘夷要求と妥協しつつもあくまで公武合体を推進したので、これらの主張が現実化することはなかった。 土佐藩による大政奉還建白 [ ] 雄藩の政治参加を伴う公武合体を構想していたは、(1864年)の崩壊により一橋慶喜(当時)や幕閣との対立を深め、また切り札と考えた(1867年)でも15代将軍に就任した慶喜の政治力により無力化されたため、慶喜を前提とした諸侯会議路線を断念し、とともに武力倒幕路線に傾斜していった。 慶応3年()、とは藩船「夕顔丸」に乗船して長崎を発ち兵庫へ向かった。 京都では将軍・慶喜および・・・によるが催行中であり、後藤は容堂に京都へ呼ばれていた。 なお、この船内で坂本は新たな政治綱領を後藤に提示した、とされているがこれは後世の創作である()。 後藤は在京土佐藩幹部である、、らに大政奉還論の採用を主張した。 これに薩摩藩の 帯刀 らも同意し、6月22日が締結された。 これは幕府が朝廷に大政を奉還して権力を一元化し、新たに朝廷に議事堂を設置して国是を決定すべきとするもので、その議員は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで「正義の者」を選挙するものとされていた。 大政奉還論はいわば平和裏に政体変革をなす構想であったが、薩摩藩がこれに同意したのは慶喜が大政奉還を拒否すると予想し、これを討幕の口実にすることにあったといわれる。 そのため盟約には土佐藩の上京出兵および将軍職の廃止を建白書に明記することが約束された。 後藤はすぐに帰国して土佐藩兵を引率してくる予定であったが、山内容堂(前土佐藩主)は大政奉還を藩論とすることには同意したものの上京出兵には反対し、建白書の条文から将軍職廃止の条項を削除した。 薩摩側は長州・との間で武力倒幕路線も進めており、結局9月7日に薩土盟約は解消された。 土佐藩は大政奉還・建白書を藩主・を通じ単独で将軍・徳川慶喜へに提出した。 大政奉還の密書 [ ] 幕府側陣営では大政奉還建白書が土佐藩主によって進言され、老中のを通して将軍慶喜に提出された。 慶喜はこの方策を採用し、倒幕に進む薩長同盟の先手を打つ形で政権を天皇に返上する動きが活発化していた。 10月12日の夜半、江戸幕府が政権を天皇に返上し、250年にも及ぶの終焉を迎える、との密書を(最後の老中に仕えた顧問)が受け取った。 方谷は筆をとると密書を密使に渡し急ぎ京へ返した。 10月13日、の方谷から渡された原文はその日のうちに京へと運ばれ、翌日には将軍慶喜の手により書き換えられ、10月14日、天皇に対して「」として提出された。 慶喜から天皇に提出された上奏文では「我」で始まる方谷の原文を「臣慶喜謹テ」と替えて即ちへり下り、あとは原文のままにそのまま写したものであったが、後半、再度「臣慶喜」を文中に入れて「十月十四日 慶喜」で終わっている。 大政奉還の成立 [ ] 将軍・徳川慶喜が諸藩重臣に大政奉還を諮問した二条城・二の丸御殿。 土佐藩の建白を受け10月13日、慶喜は上洛中の40藩重臣を京都・に招集し大政奉還を諮問した。 10月14日()に「大政奉還上表」を朝廷に提出すると共に、上表の受理を強く求めた。 ・ら朝廷の上層部はこれに困惑したが、薩摩藩の、土佐藩のらの強い働きかけにより、翌15日に慶喜を加えて開催された朝議で勅許が決定した。 慶喜に大政奉還勅許の沙汰書が授けられ大政奉還が成立した。 大政奉還は討幕派の機先を制し、討幕の名目を奪う狙いがあったものの、上表は薩摩藩らの最大の関心事であった将軍職辞任には一切触れておらず、なお慶喜はとしての地位を失っていなかった。 の下賜(後述)以降、薩摩藩・長州藩は大規模な軍事動員を開始し、この動きを制するため慶喜は10月24日に辞職も朝廷に申し出る。 幕府は朝廷には政権を運営する能力も体制もなく、一旦形式的に政権を返上しても依然として公家衆や諸藩を圧倒する勢力を有する徳川家が天皇の下の新政府に参画すれば実質的に政権を握り続けられると考えていたといわれる。 見通しの通り、朝廷からは上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会同召集までとの条件付ながら緊急政務の処理が引き続き慶喜に委任され、将軍職も暫時従来通りとされた。 つまり実質的に慶喜による政権掌握が続くことになった。 実際に朝廷は外交に関しては全く為す術が無く、10月23日に外交については引き続き幕府が中心となって行なうことを認める通知を出した。 11月19日の開市と開港の延期通告、28日のロシアとの改税約書締結を行ったのは幕府であった。 朝廷は慶喜に当分の間引き続き庶政を委任し、諸大名に上京を命じたものの、形勢を観望するため上京を辞退する大名が相次ぎ、将軍職を巡る慶喜の進退に関し何ら主体的な意思決定ができぬまま事態は推移した。 11月中に上京した有力大名は薩摩・・・の各藩のみで、土佐藩の山内容堂が入京したのがようやく12月8日であった(が勃発するのはその翌日である)。 この間、土佐藩は坂本龍馬を越前藩に派遣するなど公議政体構想の実現に向けた努力を続けていた。 他方、・・や幕臣らの間には大政奉還が薩摩・土佐両藩の画策によるものとの反発が広がり、大政再委任を要求する運動が展開された。 倒幕派の対応 [ ] 大政奉還上表の同日(10月14日)、から薩摩藩と長州藩に がひそかに渡された。 この密勅には天皇による日付や裁可の記入がないなど、の形式を整えていない異例のもので、討幕派による偽勅の疑いが濃いものであった。 大政奉還が行われた時点においては、岩倉ら倒幕派は朝廷内の主導権を掌握していなかった。 前年12月の崩御を受け、1月9日に践祚したは満15歳と若年で、親幕府派である・二条斉敬(慶喜の従兄)がに就任した。 一方、ら親長州の急進派公家は文久3年以来、京から追放されたままであった。 つまりこの時期の朝廷は二条摂政や(中川宮、維新後久邇宮)ら親幕府派の上級公家によってなお主催されていたのであり、大政奉還がなされても、このような朝廷の下に開かれる新政府(公武合体政府)は慶喜主導になることが当然予想された。 薩長や岩倉ら討幕派は、によってまず朝廷内の親幕府派中心の摂政・関白その他従来の役職を廃止して体制を刷新し、朝廷の実権を掌握する必要があった。 討幕の密勅は、朝廷内でいまだ主導権を持たない岩倉ら倒幕派の中下級公家と薩長側が、慶喜のそうした狙いに対抗する非常手段として画策したものである。 密勅を受けた討幕の実行は、慶喜の速やかな大政奉還が朝廷に受け入れられたことにより、いったん延期となったが、薩摩・長州・芸州の3藩は再び出兵計画を練り直し、土佐藩ら公議政体派をも巻き込んで12月9日のへと向かっていくことになった。 大政奉還後の国家構想 [ ] 大政奉還上表の前日の10月13日、慶喜は教授職を務めたのに対し、の議院制度等に関して諮問を行っている。 大政奉還成立後の11月、西周は意見書として「議題草案」を慶喜側近のに提出している(他にも慶喜周辺に存在した構想として、の「日本国総制度」(同年9月)などが知られている)。 西周はこの中で、徳川家中心の具体的な政権構想を示している。 西洋の官制に倣うが形式的にではあるが取り入れられ、行政権を 公府が(暫定的に司法権を兼ねる)、立法権を各藩大名および藩士により構成される 議政院がもつこととしており、天皇は象徴的地位に置かれている。 公府の元首は「 大君」と呼ばれ、徳川家当主(すなわち慶喜)が就任し、議長を兼ね、の解散権を持つものとされていた。 軍事については、当面各藩にその保有を認めるが、数年後には中央に統合するものとされた。 その他、従来の諸大名領を現状のままとし、公府の機構は幕府のそれとの関連が意識されているなど、極めて現実的な計画であった。 また、11月27日、(幕府若年寄格)は後藤に対し、慶喜には将来的にを施行する構想があることを伝えている。 大政奉還上表の内容 [ ] 臣慶喜謹テ皇國時運之改革ヲ考候ニ、昔王綱紐ヲ解テ相家權ヲ執リ、保平之亂政權武門ニ移テヨリ、祖宗ニ至リ更ニ寵眷ヲ蒙リ、二百餘年子孫相受、臣其職ヲ奉スト雖モ、政刑當ヲ失フコト不少、今日之形勢ニ至リ候モ、畢竟薄德之所致、不堪慙懼候、況ヤ當今外國之交際日ニ盛ナルニヨリ、愈朝權一途ニ出不申候而者、綱紀難立候間、從來之舊習ヲ改メ、政權ヲ朝廷ニ奉歸、廣ク天下之公儀ヲ盡シ、聖斷ヲ仰キ、同心協力、共ニ皇國ヲ保護仕候得ハ、必ス海外萬國ト可竝立候、臣慶喜國家ニ所盡、是ニ不過奉存候、乍去猶見込之儀モ有之候得者可申聞旨、諸侯江相達置候、依之此段謹テ奏聞仕候 以上 【現代語訳=陛下の臣たる慶喜が、謹んで皇国の時運の沿革を考えましたところ、かつて、朝廷の権力が衰え相家()が政権を執り、保平の乱(・)で政権が武家に移りましてから、祖宗()に至って更なるご寵愛を賜り、二百年余りも子孫がそれを受け継いできたところでございます。 そして私がその職を奉じて参りましたが、その政治の当を得ないことが少なくなく、今日の形勢に立ち至ってしまったのも、ひとえに私の不徳の致すところ、慙愧に堪えない次第であります。 ましてや最近は、外国との交際が日々盛んとなり、朝廷に権力を一つとしなければもはや国の根本が成り立ちませんので、この際従来の旧習を改めて、政権を朝廷に返し奉り、広く天下の公議を尽くした上でご聖断を仰ぎ、皆心を一つにして協力して、共に皇国をお守りしていったならば、必ずや海外万国と並び立つことが出来ると存じ上げます。 私が国家に貢献できることは、これに尽きるところではございますが、なお、今後についての意見があれば申し聞く旨、諸侯へは通達しております。 以上、本件について謹んで奏上いたします。 】 — 大政奉還上表文(部分) 備考 [ ] には、に関する行事は11月10日に実施される事が多かった。 例えば、の(西暦)や(西暦)は、いずれもこの日に実施された。 これは大政奉還を勅許して政権が天皇に復した日が11月10日である事に因んでいる。 脚注 [ ] [].

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大政奉還と坂本龍馬

大政 奉還 と は

スポンサーリンク 大政奉還の理由 徳川慶喜が将軍になったころ、幕府は以前のような権威を維持しておらず、崩壊寸前でした。 長く政権を握っていた徳川幕府が、その政権を天皇にお返して、徳川家滅亡から救うための必殺技が、大政奉還だったのです。 その前にあった長州征伐で、幕府は多くの犠牲を出してしまいました。 諸藩の間には「もう徳川幕府に政治を任せておけない。 」という風潮が高まっていました。 このままでは、徳川家は滅亡してしまう。 その危機をヒシヒシと徳川家は感じていたのでしょう。 討幕派の薩摩藩から嫁いできた天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)が、書状で徳川家を残すように、実家の薩摩藩に嘆願したりしたことからも、明白でした。 大政奉還の背景は? 色々な批判が集まり、幕府の威信は下がります。 そんな幕末の末期に、薩摩藩と長州藩が協力して、幕府を倒すために薩長同盟を結びます。 討幕の勢いが激しくなり、戦争の準備を整えた薩摩藩と長州藩は天皇に、 「幕府を正式に、倒させてください」 と願い出ます。 天皇のお許しが出たら後は、戦です。 しかもこの薩長同盟。 すごく強いのです。 西洋の最新武器を沢山持っていて、幕府が戦をしても、勝てる確率はかなり低い物でした。 そんな武力を持つ薩長同盟に睨まれた幕府は、このまま行けば幕府滅亡になってしまう。 どうすればいいのか?と、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は考えていました。 そこに、大政奉還を提案したのは、土佐藩の前藩主・山内豊信(やまのうちとよしげ)です。 ですが、この大政奉還という考えを思いついたのは別の人物で、坂本龍馬でした。 坂本龍馬は大政奉還後は、天皇の下、新たに議会を設けて、話し合いにより政治を行う、という政治体制を考えていました。 そして、その議会で「盟主」、つまりリーダーになる人物を、坂本龍馬は徳川慶喜をと、考えていたという説があるそうです。 つまり、当初坂本龍馬が構想した大政奉還は、 龍馬がそれを意図していたかはわかりませんが 徳川家を守り、平和的に新時代を迎えようとすることだったようです。 徳川慶喜は幕府への批判が高まる中、朝廷の許可のもと幕府を倒そうとする薩摩・長州から攻められる前に、政権を放棄してしまえば攻められる理由がなくなると考えました。 折しも提案された大政奉還は、考えを具現化するものでした。 徳川慶喜も幕府と、朝廷の二元体制については、限界を感じていたので、薩長に倒される前に大政奉還をしました。 徳川家、がんばる、でも…? 自ら負けを認め、白旗を振ったかのように見える大政奉還ですが、実はこのことで徳川家は滅亡を逃れたと、考えることができます。 これで、討幕派は徳川幕府を倒す理由がなくなってしまいます。 こうして見ていくと、慶喜の天をも味方にしたかのような、政治的戦略が大政奉還だったことがわかります。 実際、慶喜は大政奉還の際、形式的には政権を返上しても実質的には徳川家が政治を主導する立場にあり続けられると考えていたようです。 そして、それは慶喜の想像にとどまらず、実際に大政奉還後も引き続き内政・外交共に江戸幕府に委任されることとなりました。 当時の朝廷といえば、孝明天皇の崩御を受け、満15歳と若年な明治天皇が即位したばかりでした。 さらにそれを支えた公家たちも親幕派で、討幕派の公家は追放されたままという状態だったようです。 一見すると、白旗を挙げたかのように見える大政奉還が、実は徳川家が生き延びる最後の手段だったことがわかってきます。 しかし、これが一転、形勢が逆転する出来事が、鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争でした。 鳥羽伏見の戦いで錦の御旗が薩長側にはためいた時、慶喜は自分が朝敵となったことに動揺し、戦線を突然離脱するという大将に、あるまじき行為に及んでしまったのです。 討幕派は、モヤモヤ? 大政奉還に一番モヤモヤしたのは、討幕派の方々でした。 幕府を倒す!!と意気込んでいたのに、 「幕府は解散します。 政権は天皇にお返しします」 となりましたが、徳川家があたかも、今でも将軍であるように、扱われることから、根本的な改革は無理だと思い、旧幕府側の怒りを煽るように、江戸で放火や強盗をおこなうようになります。 でも、これってどうなのでしょうか? 薩長や公家の岩倉具視らは、王政復古の大号令にも表れているように、天皇が名実ともに国家元首であることが大前提で、尊皇思想の根底を受け継ぎながらも、西洋諸国に倣った国づくりが目指していました。 こうして天皇を擁立する薩長派の新政府軍と、あくまでも徳川家により国作りを目指した旧幕府軍とで、鳥羽伏見の戦いの幕が開き、明治維新へと向かっていくのです。 この時に活躍したのが「討幕の密勅(とうばくのみっちょく)です。 「討伐の密勅」とは天皇が「徳川幕府をたおしてもいいよ。 」というお墨付きでした。 ただ、この「討幕の密勅」偽造という説が濃厚らしい?です。 というのも、これを出したのが孝明天皇が亡くなって後を継いだのが、まだ幼い明治天皇。 ということで幼い明治天皇がどうやって、密勅を出すの?しかもすごく手続きも早く、どうかんがえても…。 というものでした。 実際に主導したのは公卿の岩倉具視(いわくらともみ)だといわれています。 大政奉還の後は? 大政奉還の翌日に、朝廷はこれを受理。 260年続いた江戸幕府は滅亡。 でも普通に考えて、今日から滅亡いたしました。 明日からはなしだよ。 とは上手くいきません。 当たり前ですが。 江戸城には沢山の人々が暮らしていました。 その人たちのことも含め、大政奉還した後も、「旧幕府」ということで依然として、強い勢力を持っていたのでした。 その状況に、またモヤモヤが薩長同盟に広がります。 彼らの考えでは、大政奉還後幕府は権力もなく、ぼんやりと、日向ぼっこした猫の様に、生きていくことを想像していたのに…。 そのモヤモヤが、戊辰戦争につながります。 戊辰戦争も、和宮や天璋院篤姫などが、新政府の対応に回り、上手くいき、 1年余りで終結しました。 ただこの規模の戦が、1年で終結するのも珍しいのですが、もっときちんと伝わっていれば、会津の白虎隊の方々が、亡くならなかったのに…。 という私の個人的モヤモヤが残りました。 まとめ 1、大政奉還の理由は、徳川家滅亡を救うためのものだった。 2、大政奉還の背景は、平和的に新時代を迎えたかった人達の、考えの結晶だった。 3、徳川家は大政奉還で、滅亡を免れた。 4、討伐派は、それでも徳川家を許せなかった。 5、大政奉還した後も、旧幕府は強い力を持っていた。 6、討幕派は、大政奉還だけでは足りずに、「討幕の密勅」という裏ワザを繰り出してきた。 大政奉還だけでは、平和にならなかったとが、私としてはショックでした。 天璋院や和宮が大政奉還後に、尽力し働いていた人に就職先を世話したりと、奔走していた陰で、こんなことが起こっていたと考えると、かなり残念です。 そしてこれで、収まっていれば、会津の白虎隊の悲劇が、少なくとも起こらなかったことに、かなりモヤモヤしてしまいました。 個人的にですが…。 皆さんはどうかんじましたでしょうか? 皆さんの知識に少しでも、貢献できればうれしいです。 ここまでお読みいただきありがとうございました。

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