いとう さえ り。 九州朝日放送 創立65周年記念 羽鳥×宮本 福岡好いとぉ|KBC九州朝日放送

伊藤沙莉は韓国人ハーフだった!兄は芸人で姉も芸能人?出身高校は若松高校!

いとう さえ り

1954年 誕生 伊藤 整(いとう ひとし) ・炭焼沢村 (現:) 死没 1969-11-15 (64歳没) ・ 職業 ・ 言語 国籍 最終学歴 (現・)中退 活動期間 - ジャンル ・・・ 文学活動 () 代表作 『』(1926年,詩集) 『小説の方法』(1948年,評論) 『』(1950年) 『』(1953年) 『日本文壇史』(1953-73年,評論,中絶) 『』(1956年) 『』(1958年) 『変容』(1968年) 主な受賞歴 (1963年) (1967年) (1969年) (1970年) デビュー作 『雪明りの路』(1926年) 子供 () () 伊藤 整(いとう せい、(38年) - (44年))は、の、、、。 本名は 伊藤 整(いとう ひとし)。 抒情派詩人として出発したが、その後詩作を離れて・に重心を移し、らの影響を受けて「」を提言。 戦後は旺盛な著作活動に加え、ベストセラーや裁判の影響もあり、もっとも著名な評論家の一人となった。 的文学の理論化をめざすとともに自身も創作を行い、評論では『小説の方法』「近代日本人の発想の諸形式」「近代日本における『愛』の虚偽」『日本文壇史』などがあり、『氾濫』『変容』『発掘』は、の衣鉢を継ぐ近代小説三部作である。 、、社団法人副会長、などを歴任した。 生涯 [ ] 詩人としての出発 [ ] 炭焼沢村(現)で教員の父伊藤昌整と母タマ(旧姓鳴海)の間に、姉一人と10人の弟妹の12人兄弟の長男として生まれた。 父は粟谷村(現)出身で、教導団出身の陸軍少尉だったが、出征後、の水路部測量員(灯台看守兵)に志願して北海道に渡った。 まもなく辞職して白神尋常高等小学校の教員となり、整が生まれた年に父は出征でで重傷を受けて帰国し、の官舎に移る。 1909年に父は(現小樽市)村役場書記となり、塩谷村へ移る。 旧制小樽中学(の前身)を経て(の前身)に学ぶ。 中学3年の時に、2年先輩の北見恂吉の影響で詩に関心を持ち 、級友と同人誌『踏絵』を発行。 小樽高商在学中の上級生にやがおり、一緒に劇に出演したこともある。 とも親交があった。 後、旧制小樽市立中学の英語教師に就任。 1923年に友人川崎昇と同人誌『青空』発行。 1926年に主宰の『椎の木』に手紙を出して同人となり、自費出版した詩集『雪明りの路』で百田宗治、に高く評価された。 小樽で教員を続けながら、1928年に河原直一郎、川崎昇と同人誌『信天翁』刊行。 に泊まり込んで下宿代を浮かせたり、夜間学校の教師の副職をするなどして、1300円の貯金を蓄え、2年後に教師を退職し上京し、北川冬彦、仲町貞子らと同居。 小説と評論 [ ] 1927年旧制(の前身)。 教授のゼミナールに所属し、を学ぶ。 またの紹介で入ったにいた、、らと知り合い親交を結び、瀬沼茂樹の主催していた『一橋文芸』に短編小説を寄稿し 、瀬沼とはその後も生涯にわたって親交を結んだ。 また河原、川崎と批評誌『文芸レビュー』刊行、処女小説「飛躍の型」を同誌に発表、続いて「鸚鵡」「パルナス座」「繭」などを発表。 1930年には小説「送還」「感情細胞の断面」を川端康成に推奨された他、評論「文学領域の移動」「ジェイムス・ジョイスのメトオド『意識の流れ』に就いて」などを『文芸レビュー』『』『新科学的』各誌に発表。 また小川貞子と結婚、『科学画報』に掲載した小説「潜在意識の注意」で初めて原稿料を手にし、ジョイス『』の翻訳を、と『詩・現実』に連載。 1931年にの翻訳に力点を置いた『新文学研究』を編集し金星堂から発行、東京商科大を退学し、『文芸レビュー』『風車』の同人と『新作家』を創刊。 1932年に処女評論集『新心理主義文学』で、ジェイムズ・ジョイスやらの影響による「新心理主義」を提言し、やなど当時の文壇にも影響を与え、自身も実験作『生物祭』『イカルス失墜』などを執筆。 これらの作品は批判にも晒されたが、は現代文学体の代表作として横光利一「」と並ぶものと評している。 1935年から1944年まで芸術科。 1935年にの『』を翻訳して刊行。 また書下し長編小説『青春』 1938 、『霧氷』『典子の生き方』 1939 、戦時下において私小説の手法を逆用して自己韜晦によって社会を風刺する 『得能五郎の生活と意見』 1940 などを発表。 1939年に、、、と「大陸開拓文芸懇話会」を発足し、の補助金を得て、に視察旅行を行い、これを基にした旅行記や短編小説「息吹き」執筆。 1940年にはの動きに応じて日本文学者会の発起人の一人となった。 1944年から1945年文化企画部長、1944年旧制光星中学校(現)英語科教師。 1945年に北海道の妻の実家に疎開、株式会社落部ベニヤ工場勤務。 戦後1946年に講師となるが、7月に上京、に土地を買って山小屋風の家を建てて住み、「鳴海仙吉の朝」などを発表。 1948年に鳴海仙吉ものを集めて長編『鳴海仙吉』として八雲書店に原稿を渡したが、印刷屋により差し押さえられて出版不能となり、新たな書き直しを行なって1950年に細川書店より刊行、インテリ層と文壇の実体についての自虐と風刺によりの作家ともみなされた。 伊藤整ブーム [ ] 1948年、1949年から1950年第一文学部講師、1949年専任講師()、日本ペンクラブ幹事。 1950年には『チャタレイ夫人の恋人』の完訳版をから刊行し、上下巻で20万部の売れ行きとなったが、わいせつ文書として押収され、とともに起訴された。 この頃から原稿や講演の注文が殺到し、長編小説『火の鳥』も好評で、『読売新聞』年末の「1953ベストスリー」の記事では、評者10人のうち9人に選ばれている。 1954年のベストセラーのうち、1位『女性に関する十二章』、3位『火の鳥』、5位『文学入門』を占め、評論『文学と人間』 などベストセラーとなり 、合わせて年間70万部を売り上げたという。 1953年の文壇高額所得番付でも8位となっている。 1954年にに転居。 1956年には『文学界』で『』を強く推して議論を巻き起こした。 1958年東京工業大学昇格、で行われた執行委員会で発表、その後の、のイギリス・ペンクラブ例会に出席、、、などを旅して、1959年帰国。 1960年から招聘されて及びで講義。 帰国後、による「純文学歴史説」や、、らのの流行に刺激され、「『純』文学は存在し得るか」を発表、「」を引き起こした。 晩年 [ ] 設立に尽力した(内) 1962年副会長、また、らと設立運動を始め、設立時の理事となり、初代高見順の後を受けて1965年から理事長。 1963年『日本文壇史』により受賞。 1964年東工大を退職、1967年受賞 、1968年会員。 1966年の北海道文学展や、1967年に設立にも協力。 1969年にで入院、手術し、の診断を受け再入院、11月15日、癌性腹膜炎のための附属病院で死去。 で告別式が行われ、戒名は海照院釈整願。 叙、叙授。 『変容』に続く作品として『日暮れ』の腹案が準備されていた。 没後1970年、『変容』により受賞、同年に北海道塩谷に伊藤整文学碑が建立され、碑には詩集『冬夜』の中の「海の棄児」が自筆で刻まれている。 1952年から連載していた『日本文壇史』はに引き継がれ、1976年に完結した(単行本は1953年から1978年にかけて全24巻。 伊藤分は18巻まで)。 1972年から1974年にかけてから『伊藤整全集』(全24巻)が刊行。 1990年にの発案により小樽市によりが制定された。 (都市工学、東京大学名誉教授、元早稲田大学教授、元慶應義塾大学教授)は長男。 (エッセイスト、英文学者、元教授)は次男で、整の評伝も刊行している。 東京工業大学での英語の授業を受けたは、後に「伊藤整論」を発表 し師事を得て、『氾濫』で扱われるについても、自身の専門とする立場からの助言を行なった。 他に弟子による回想は堀川潭『伊藤整氏との三十年』(新文化社、1980年)がある(実質は私家版)。 チャタレイ裁判 [ ] 詳細は「」を参照 6月、伊藤整がしたの『』が文書に当るとして摘発を受けた。 は1949年に発売された『石中先生行状記』を摘発したが世論の反発で起訴猶予となり、1950年1月には『』を発禁処分としたがに「アメリカで公刊を許されたものがなぜ発売禁止になるのか」と抗議されて撤回しており、『チャタレイ夫人の恋人』も発売後に摘発を危惧されていた。 その際発行人の小山書店代表のみならず、翻訳者の伊藤整も起訴された。 裁判では芸術性の高い文学作品を猥褻文書とすることの是非、翻訳者を罪に問うことの是非などが争われたが、、最高裁は伊藤、発行人共に有罪とした。 著者の『裁判』は、当事者の立場から、文学裁判を膨大かつ詳細な記録で問題提起した、ノンフィクションにして代表作のひとつである。 またはこの裁判が始まると融資が受けられなくなり、経営が行き詰って倒産することとなった。 この翻訳はに、戦後では珍しいを使って出版された。 同訳での他の文学全集もそれに拠っている。 なお完訳は1973年に、から訳が刊行され、75年の『世界文学全集』にも収録されたが、世間的には知られなかった。 に次男のが削除部分を補った完訳版を新潮文庫から出版し、出版時に多くのマスメディアが取り上げ、初の完訳という誤報を流した。 作品 [ ] 20世紀文学の手法 [ ] 『雪明りの路』は、1920年から小樽高等商業学校の校友會誌、同人誌『青空』『信天翁』『椎の木』に発表したものと、未発表作品を収めている。 当時『』から様々な詩集、『日本詩人』などの詩誌を愛読し、、や、『海潮音』、『月下の一群』などの訳詩集の影響を受け、、、などの英詩の原文をあたっていた。 作品は北海道の自然を背景とした、のであり、扉にはイエーツを引用しており、出版当時は「あなたは誰よりもよく深く詩の本質を理解している。 あなたは深い大きな共感、そのむしろ潜行的な力強い伝搬力を真底から把握している」と評し、瀬沼茂樹は「いかにも青春らしい思慕や、哀愁や、憧憬が、北海道の厳しい自然と綯いあわされて、きわめて上品で、特有な詩趣を実現していると思われる」と述べている。 『冬夜』は1925年から『椎の木』、及び伊藤とらによる第二次『椎の木』に発表された作品を収めて限定版として発行された。 1954年刊『伊藤整詩集』はこの2詩集と、1929-30年に発表された作品、及び1948年に発表された「鳴海仙吉の詩」を収めており、1958年新潮文庫版『伊藤整詩集』ではこれに、1957年に川崎昇夫人が没した際に書いた「川崎くら子夫人を葬る詩」を納めている。 これらの詩の何編かは、小説『鳴海仙吉』『幽鬼の村』に挿入されている。 『新心理主義文学』厚生閣 1932年 1929年からは『』に欧米の現代詩人の紹介を寄稿しており、1931年から34年にかけて『ユリシーズ』の翻訳を進めていた伊藤は、ジョイスやのの手法について論じた「新心理主義文学」を1932年3月に『』に発表。 これらの作品が「二十世紀はインテリゲンチアの知性の内向する時代、感性の捌口を持たぬ時代」を背景にしており、彼らが「新しい文学の様態を提出したのは、最早古き様態の文学に盛ることの出来ない新しい現実を彼らが発見した」と述べた。 この評論は『』を発行していた厚生閣書店から、編集の「現代の芸術と批評叢書」の一冊として、同4月にこれを含む『新心理主義文学』として刊行された。 またその理論を「飛躍の型」「感情細胞の断面」「幽鬼の街」「幽鬼の村」等の実作として試みたが、「エッセイや小説はあらゆる種類の非難と嘲笑と否定と罵言と、また僅少の好意ある忠告」を受けた。 は伊藤の「ジェイムス・ジョイスのメトオド『意識の流れ』に就いて」 1930 について評論「心理小説」で「極く普通の言ひ方で書かれた在来の小説が、本当に行き詰つてゐるのであるか、小説の極点は十九世紀で終わったと活動写真に色目を使ふのと、たまたま泣きつ面の前に新しいお手本がひろげられた気で、これだこれだと浮き腰になるのとどつちが一体利口なのであらうか」「作家にとつて生々しい問題は文芸史発達の上にはない。 己れの支へる文芸理論の深化にあるのだ。 」と評し、または「伊藤はジョイスが流行ればジョイスを真似、プルウストが流行ればプルウストを真似、『得能五郎の生活と意見』も何とかいう外国小説の真似だ」と批判した。 これに伊藤は1947年になってエッセイ「『トリストラム・シャンディイ』と『得能五郎』」にて「ジョイスとロレンスの代表作を初めて日本語に移したのは私である。 それは無意義であったろうか。 その影響なしに当代の日本文学は成立しているであろうか」と反駁している。 「」 1930年)、「水晶幻想」 1931年 なども、この新心理主義的技法を用いた作品と言われている。 「機械」は発表当時小林秀雄らによっても激賞されたが、伊藤はこれをプルーストの影響とした上で「堀()も私もやらうとしてまだ力が足りなかったうちに、この強引な先輩作家は、少なくとも日本文で可能な一つの型を作ってしまつた、という感じであった。 」と述べている。 評論と創作 [ ] 『小説の方法』 1948 は近代日本文学を西欧文学と比較しつつ、初めて論理的、体系的にとらえた文芸批評であり 、「自分が文学をどのようなものと考えるべきか、また自分の創作の態度をいかに定めるべきか、という問題を中心として、ヨーロッパの文学と日本の近代文学を比較しながら」書いたと、『文学入門』序文で述べている。 続いて書かれた『小説の認識』 1955 は『小説の方法』を発展させた、1949年から1953年に発表した文学論を集めたもので、当時のブームにより新書版で刊行された。 これには『物語戦後文学史』で「マルクス主義芸術論を破ったこと」「「人格美学」なるものに終焉を宣言したこと」「現代では、力を持つものは「組織」であり、個人の生命のはたらく場所、その自由は微小だ、という認識に到達したこと」の3点を挙げている。 ただしは、に代表される日本的人格美学の形式である私小説も、「芸」への「移転」によって「本格小説」となりうることを示しており、またマルクス主義文学も「イデオロギー抜きの思考方法」として肯定されていると論じ、「組織」の絶対性と相対性は「その後の社会学や政治学の発展、構造主義的方法の普及などにより、今日ではほとんど常識化」されていると述べている。 またの体験も元に、芸術は「生命の側に立ち、人間を抑圧する秩序に反抗するもの」という考えを示し、これを実作『火の鳥』で示してみせた。 『文学入門』 1954 は、この二冊の結論を「できるだけ分かりやすい形で、文学の形式、その感動の働き、その文体、他の芸術との比較、という諸点からこの本を書いた」「現在のところ、この本が、私の到達点である」と序文で述べたものになっている。 1958年から刊行された『全集』では全巻の解説を担当、自身の没後に『谷崎潤一郎の文学』として出版され、それまで無思想の作家とされていた谷崎への定説を覆してその思想を論じたとして、高い評価を受けた。 『得能五郎の生活と意見』は、1940年に発表された「鞭」「得能五郎の生活と意見」などをまとめて長編化したもので、時代の梗塞状況に対して、私的な自己主張のみに限定して語るという、私小説の方法を逆手にとって、それをパロディ化した自己戯画によって風刺する文体を用いた。 大和大学芸能科講師の主人公とともに、登場人物には当時の友人たち、福田清人、森本忠、蒲池歓一、、坂本越郎、春山行夫、、川崎昇らをモデルとしている。 発表当時は『空想家とシナリオ』や、『伸六行状記』に比較論評され、また小林秀雄からは「文士得能五郎の生活紛失附他人生活に關する散歩的意見」、その意見が「子供らしい」と評したが、伊藤はこの作品について「軽い気持ちで自分の興味の対象を日常から取り上げて描くという随筆的なもの」と語っている(『感動の再建』所収「小説の復活」)。 『得能物語』はこの下巻と言える作品で、「人間の鎖」 1941年8月 以降に発表された作品をまとめて1942年に長編として刊行された。 主人公はの『ルーマニア日記』やのを講義する中で、自身の私小説論も展開している。 また戦後発行の版では、1941年12月の開戦時の背景説明の追加や、の引用部分の要約などの改訂がなされた。 戦後の『鳴海仙吉』はこの方法により、また詩、小説、戯曲、評論などのジャンルを取り入れる、ジョイス『ユリシーズ』の技法を用いて、自分を含めた戦時中の知識人への批判、反省を主題にしつつ、内向的、倫理的な作品となっている。 主人公は非行動的な(ロシア文学の)的であるが、より卑小な人物像となり、笑いの要素が多くなったと自ら語っている。 その後のチャタレイ裁判について『伊藤氏の生活と意見』では芸術の正当性を述べるとともに、女性を含めた既成の性道徳への批判にも及んだ。 これを読んだ『婦人公論』編集者が、女性への批判や考えについての連載を依頼し、戯文調の、女性を嘲笑するかのような批判から、人生論、文学論にまで及ぶエッセイ『女性に関する十二章』は、中央公論社からデザインの新書版で単行本化され、3ヶ月連続ベストセラー1位となり、50万部を売り上げた。 ここで取り上げた女性論、人生論は、『氾濫』『発掘』『変容』の長編三部作で作品化された。 『氾濫』執筆と同時期に新聞連載された『誘惑』は、『氾濫』と同じように裕福な家庭の問題を扱いながら、破滅的な物語にはならず、連載にあたって「技術的には、オペレッタ風の、歌謡を織り込んだ小説にするつもりである」(作者のことば)と語ったように、明るく、喜劇風に描かれている。 また『感傷夫人』は『女性に関する十二章』によるブームに続いて初めて女性誌に連載した長編小説で、男女の三角関係を現代的視点で描いたものだが、筋をそれ以上に紛糾させるような通俗的興味を狙う方法を取らず、また愛情の純粋な形を問いながら、思想的結末、小説的結末をつけずに、「人間の内心のつぶやき」を「作者が創始したといってもよい心理的な追及の仕方」によって詳細に書き込まれたものになっている。 『鳴海仙吉』は『小説の方法』と問いと答えの関係となっていると自身で述べていたように、伊藤の小説は自分の文学理論を実作に適用しただけとの見方をされることが多いが、は「理論の単純な実作への適用ではなく、その基調をなすのは、彼の『詩』であるようです」と評している。 または「『氾濫』は『雪明りの路』を残酷に踏み躙っているように見えるが、それは彼が今でも『雪明りの路』を歩いているのだという自信があるからではないか」と発言している。 は昭和初期の文学の流れを、第一に私小説に代表される伝統的リアリズム、第二にプロレタリア文学に代表されるマルクス主義文学、第三に20世紀の海外の新文学の刺激を受けたモダニズム文学の三派鼎立という図式であらわし、伊藤整の影響を大きく評価するとともに、マルクス主義運動に対する根深いコンプレックスを指摘している。 自伝的小説として、少年期を題材にした『少年』、小樽時代から上京までの青年期を題材にした『若い詩人の肖像』、また同じ舞台によるフィクション『青春』『幽鬼の街』があり、戦後に書いた『鳴海仙吉』も、自己暴露、自己分析的作品と言える。 連載途中で未完となった『年々の花』は、日露戦争に参加した父昌整を一人の明治人として描こうとした作品で、1941年から構想し、やにも取材を重ねた上で執筆に取り掛かっていたものだった。 『日本文壇史』は、『』編集者に「近代日本の「文壇外史」とでもいふべきもの」をと依頼されて、断ったものの再三の要請で承諾して1952年から連載を始めた。 2年連載後に単行本第1巻刊行時には、「明治初年から『書生気質』まで」の300枚を書き加えた。 詩集 [ ]• 『雪明りの路』椎の木社、1926年(木馬社、1952年)• 『冬夜』近代書房[発売インテリゲンチヤ社]、1937年(細川書店、1947年)• 『伊藤整詩集』光文社、1954年(新潮文庫、1958年) 小説 [ ]• 『生物祭』、1932年(短編集)のち講談社文芸文庫• 『イカルス失墜』椎の木社、1933年(短編集)のち新潮文庫• 『石狩』版画荘、1937年(短編集)• 『馬喰の果』新潮社、1937年(短編集)のち文庫• 『石を投げる女』竹村書房、1938年(短編集)• 『青春』河出書房、1938年(書下し) のち角川文庫、新潮文庫• 『街と村』、1939年(短編集) のち講談社文芸文庫• 『霧氷』、1940年(『長篇文庫』1944年) のち角川文庫• 『典子の生きかた』河出書房、1940年(書下し) のち角川文庫• 『吉祥天女』金星堂、1940年(短編集)• 『祝福』、1940年(短編集)• 『得能五郎の生活と意見』河出書房、1941年 のち新潮文庫(短編「鞭」「得能五郎の生活と意見」などを改稿長篇化したもの)• 『得能物語』河出書房、1942年 のち新潮文庫(短編「人間の顔」「安宅」などを改稿長篇化したもの)• 『故郷』協力出版社、1942年(短編集)• 『父の記憶』利根書房、1942年(短編集)• 『童子の像』錦城出版社、1943年(書下し)• 『雪国の太郎』帝国教育会出版部、1943年• 『三人の少女』淡海堂、1944年(少女小説)• 『微笑』南北書園、1947年(短編集)• 『鳴海仙吉』細川書店、1950年 のち新潮文庫、岩波文庫• 『花ひらく』、1953年(『朝日新聞』1953年5-7月) のち角川文庫• 『』、1953年 のち新潮文庫、角川文庫• 『海の見える町』新潮社 1954年(短編集)• 『感傷夫人』 1956年(『婦人公論』1954年1月-1955年12月) のち角川文庫• 『町 生きる怖れ』角川文庫、1956年• 『少年』筑摩書房、1956年• 『若い詩人の肖像』新潮社、1956年(「海の見える町」(『新潮』1954年3月)、「若い詩人の肖像」(『中央公論』1955年9-12月)、「雪の来るとき」(『中央公論』1954年5月)、「父の死まで」(『世界』1956年1月)等を加筆集成) のち新潮文庫、講談社文芸文庫• 『誘惑』、1957年(『朝日新聞』1957年1-6月) のち角川文庫• 『氾濫』新潮社、1958年(『新潮』1956年11月-1958年7月) のち新潮文庫• 『泉』中央公論社、1959年(『朝日新聞』1959年4-10月) のち角川文庫• 『虹』中央公論社、1962年(『婦人公論』1960年1月-1961年4月)• 『同行者』新潮社、1969年(『週刊新潮』1968年1-12月)• 『変容』、1968年(『世界』1967年1月-1968年5月) のち岩波文庫• 『花と匂い』新潮社、1970年(『サンケイ新聞』1967年2-12月)• 『年々の花』中央公論社、1970年(『小説中央公論』1962-63年、未完)• 『発掘』新潮社、1970年(『新潮』1962年3月-1964年10月) 評論・随筆等 [ ]• 『新心理主義文学』厚生閣書店、1932年• 『小説の運命』竹村書房、1937年• 『芸術の思想』砂子屋書房、1938年• 『一葉文学読本』第一書房 1938年• 『現代の文学』河出書房、1939年• 『四季 随筆集』赤塚書房、1939年• 『私の小説研究』厚生閣、1939年• 『文学と生活』昭和書房、1941年• 『満洲の朝』育生社弘道閣、1941年(旅行記)• 『文芸と生活・感動の再建』四海書房 1941年• 『小説の世界』報国社、1942年• 『戦争の文学』全國書房、1944年• 『小説の問題』大地書房、1947年• 『文学の道』南北書園、1948年(『私の小説研究』加筆改題)• 『小説の方法』河出書房、1948年、のち河出文庫(旧)、新潮文庫、筑摩叢書、(新版校訂)• 『伊藤整文学論選集』実業之日本社、1949年• 『我が文学生活』細川書店、1950年• 『性と文学』細川書店、1951年• 『裁判』、1952年、のち旺文社文庫、晶文社(各・上下)• 『伊藤整氏の生活と意見』河出書房、1953年(『新潮』1951年5月-1952年12月)のち角川文庫• 『日本史』18巻目まで、大日本雄弁会講談社/、1953-1973年(『群像』1952年1月-)、度々新装版刊、(改訂版)• 『文学入門』光文社カッパブックス、1954年、のち光文社文庫、講談社文芸文庫(改訂新版)• 『』中央公論社、1954年(『婦人公論』1953年1-12月)のち角川文庫、• 『我が文学生活』全6巻 講談社、1954-1964年• 『文学と人間』角川新書、1954年• 『小説の認識』河出書房(新書)、1955年、のち新潮文庫、岩波文庫(新版校訂)• 『芸術は何のためにあるか』中央公論社、1957年• 『近代日本の文学史』光文社カッパブックス、1958年(夏葉社 新版校訂・2012年)• 『作家論』筑摩書房、1961年 のち角川文庫• 『ヨーロッパの旅とアメリカの生活』新潮社、1961年• 『求道者と認識者』新潮社、1962年• 『愛と性について』1970年、大和書房• 『知恵の木の実』「人と思想」文藝春秋、1970年(『婦人公論』1967年2-12月)• 『の文学』中央公論社、1970年、新書版「全集」の解説• 『小説の方法・小説の認識』「名著シリーズ」講談社、1970年、新版1972年• 『近代日本人の発想の諸形式』岩波文庫、1981年。 編・解説• 『太平洋戦争日記』全3巻 新潮社、1983年 主な編著 [ ]• 『文章読本』(河出書房(新書)、1954年)• 『ジョイス研究』(、1955年、新版1967年)• 『夏目漱石研究』(新潮社、1958年)• 『20世紀英米文学案内9 ジョイス』(研究社出版、1969年) 翻訳 [ ]• 『ユリシイズ』・共訳 第一書房、1931-1934• ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』(削除版)健文社、1935• 『狭き門 全集』金星堂、1935• 『贋金づくり ジイド全集』葛川篤共訳 金星堂、1935• ロレンス『恋愛論』健文社、1936• ロレンス『恋する女』共訳、三笠書房、1936• 『ロレンス文学論』永松定共訳、昭森社、1937• 『世界文豪読本 ロレンス篇』第一書房、1937年• 『ロシア文学講話』改造社、1938-1939• 『ユリシーズ』河出書房、1938年• 『運命の橋』新潮社、1940 のち文庫• 『汚れなき時代』三笠書房、1941• レイモント『農民 第三部』第一書房、1941• ローレンス『メキシコの朝』 育生社弘道閣、1942• クロポトキン『ロシヤ文学の理想と現実』共訳、改造社 1947• 『小公女』鎌倉書房、1949 のち新潮文庫• 『チャタレイ夫人の恋人 ロレンス選集』小山書店、1950 のち新潮文庫• 『事件の核心』新潮社、1951 のち文庫• 『メリーメン・黒い矢』せいかつ百科刊行会、1955年• ロレンスの手紙』永松定共訳 弥生書房 1956-1957年• ロレンス『息子と恋人』河出書房新社、1960年• 『若草物語』講談社、1962 作品集 [ ]• 『伊藤整作品集』全5巻 河出書房、1953年• 『伊藤整全集』全14巻 河出書房、1955-1956年• 『伊藤整作品集』光文社、全10巻、1957-1959年• 『現代知性全集5 伊藤整集』日本書房、1958年• 『現代人生論全集9 伊藤整集』雪華社、1966年(復刻「私の人生論8 伊藤整」日本ブックエース、2010年)• 『伊藤整全集』全24巻 新潮社、1972-1974年• 『未刊行著作集12 伊藤整』白地社、1994年• 『街と村・生物祭・イカルス失墜』講談社文芸文庫、1993年 注 [ ] []• 瀬沼茂樹「文学思想の懐胎」(『新潮日本文学31 伊藤整集』新潮社 1970年)• 『瀬沼茂樹文庫目録』日本近代文学館 1997年• 吉本隆明『言語にとって美とはなにか』• 奥野健男『日本文学史 近代から現代へ』中央公論社、1970年• 「文学的自伝」(『』1941年9月、『伊藤整全集 15』新潮社 1974年)• 高見順『昭和文学盛衰史』講談社 1965年• ウェブ電藝• 「伊藤整ブームと『日本文壇史』の方法」(『日本文壇史 2』講談社学術文庫 1995年)• 大村彦次郎『文壇挽歌物語』ちくま文庫 2011年• 『朝日新聞』1967年4月7日(発行)朝刊、14頁。 木原直彦「様々お世話になった人-伊藤整と北海道」 『日本文壇史 12 自然主義の最盛期』講談社文芸文庫 1996年)• 『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)36頁• 「著者に代わって読者へ 回転書棚の軋み」」(『日本文壇史18 明治末期の文壇』講談社文芸文庫 1997年)• 後に評伝、奥野健男『伊藤整』(潮出版社、1980年)を刊行した。 奥野健男「解説」(『近代日本人の発想の諸形式』岩波文庫、1981年)• 『伊藤整詩集』新潮文庫、1958年(瀬沼茂樹解説)• 、編『日本近代文学評論選』岩波文庫 2004年• (『新潮日本文学31 伊藤整集』新潮社 1970年)• 曾根博義「解説」(『小説の認識』岩波文庫 2006年)• (『小説の方法』筑摩叢書 1989年)• 「作家案内 伊藤整 伊藤整と三島由紀夫」(『日本文壇史 1』講談社学術文庫 1994年)• 瀬沼茂樹(『得能五郎の生活と意見』新潮文庫 1954年)• 瀬沼茂樹(『得能物語』新潮文庫 1954年)• 「得能五郎と鳴海仙吉」• 奥野健男「解説」(『女性に関する十二章』中公文庫、1974年)• 奥野健男(『誘惑』角川文庫 1962年)• 瀬沼茂樹「解説」(『感傷夫人』新潮文庫 1959年)• 中村光夫『日本の現代小説』• 曾根博義「伊藤整の評論-伊藤整の周辺 6 」(『日本文壇史18 明治末期の文壇』講談社文芸文庫 1997年)• 「伊藤整『日本文壇史』の特質」(『日本文壇史1 開花期の人々』講談社文芸文庫 1994年) 参考文献 [ ]• 年譜(『日本の文学59 伊藤整』中央公論社 1965年)• 年譜(『新潮日本文学31 伊藤整集』新潮社 1970年) 外部リンク [ ]• - (2019年3月31日アーカイブ分)• 1943:• 1948:• 1951:• 1953:• 1954:• 1955:• 1956: ・• 1957:• 1958: ・ ・• 1959: ・• 1960: ・・• 1961: ・・・• 1962: ・・• 1963: ・• 1964:• 1965: ・• 1966: ・• 1967: ・• 1968:• 1969:• 1970:• 1971:• 1972:• 1973:• 1974:• 1975:• 1976:• 1977:• 1978:• 1979:• 1980:• 1981:• 1982:• 1984:• 1985:• 1986:• 1987:• 1988:• 1989:• 1990:• 1991:• 1992:• 1993:• 1994:• 1995:• 1997:• 2000:• 2001:• 2003:• 2004:• 2005:• 2006:• 2007:• 2008:• 2011:• 2013:• 2016:• 2017:• 2018:• 2020:• 1942:• 1943:• 1950:• 1951: ・• 1952: ・• 1953:• 1954:• 1956:• 1957: ・• 1958:• 1959: ・・• 1960: ・• 1961: ・• 1962:• 1963: ・• 1964: ・• 1965:• 1966: ・• 1967:• 1968: ・• 1969: ・• 1970: ・• 1971:• 1972:• 1973:• 1976:• 1977:• 1979:• 1980:• 1981:• 1982:• 1984:• 1985:• 1986:• 1988:• 1990:• 1991:• 1992:• 1993:• 1994:• 1995:• 1996:• 1997:• 1998:• 1999:• 2000:• 2001:• 2002:• 2003:• 2004:• 2005:• 2006:• 2007:• 2008:• 2009:• 2010:• 2012:• 2013:• 2015:• 2017:• 2018:• 1943:• 1950:• 1952:• 1953:• 1954:• 1955:• 1957:• 1958:• 1961:• 1963: ・• 1966: ・• 1968:• 1970:• 1971:• 1972:• 1973:• 1974:• 1975:• 1977:• 1979:• 1980:• 1981:• 1982:• 1985:• 1986:• 1987:• 1988:• 1990:• 1991:• 1992:• 1994:• 1996:• 1997:• 1998:• 1999:• 2002:• 2003:• 2004:• 2005:• 2006:• 2007:• 2008:• 2009:• 2012:• 2016:• 2019:• 1943:• 1950:• 1951:• 1952:• 1953:• 1954: ・• 1955: ・• 1956: ・・• 1957:• 1958:• 1959: ・• 1960: ・• 1961: ・• 1962: ・• 1963: ・・• 1964:• 1965:• 1966:• 1967:• 1968: ・• 1969:• 1970:• 1971:• 1973:• 1980:• 1981:• 1982:• 1983:• 1984:• 1985:• 1986:• 1988:• 1989:• 1990:• 1991:• 1992:• 1993:• 1994:• 1996:• 1997:• 1998:• 1999:• 2000:• 2001:• 2003:• 2004:• 2006:• 2007:• 2010:• 2012:• 2013:• 2016:• 2018:• 2019:• 1951:• 1953:• 1955:• 1957:• 1960: ・• 1961: ・• 1962:• 1963:• 1964:• 1965:• 1966:• 1967:• 1968:• 1969:• 1970:• 1971: ・• 1972:• 1973:• 1976:• 1977:• 1978:• 1981:• 1983:• 1984:• 1985:• 1986:• 1987:• 1989:• 1990:• 1991:• 1992:• 1993:• 1994:• 1995:• 1996:• 1997:• 1998:• 1999:• 2000:• 2001:• 2002:• 2003:• 2004:• 2005:• 2006:• 2007:• 2008:• 2009:• 2010:• 2011:• 2012:• 2017:• 2018:• 2019:• 1950:• 1952:• 1953:• 1957:• 1959:• 1961:• 1962:• 1965:• 1966:• 1967:• 1968:• 1971:• 1974:• 1975:• 1980:• 1981:• 1982:• 1984:• 1985:• 1987:• 1988:• 1989:• 1990:• 1991:• 1992:• 1993:• 1995:• 1996:• 1999:• 2000:• 2001:• 2003:• 2004:• 2006:• 2008:• 2010:• 2011:• 2013:• 2015:• 2020:• 1950:• 1951:• 1952:• 1955:• 1956:• 1957:• 1959:• 1960:• 1961:• 1963:• 1966: ・• 1967:• 1968:• 1969:• 1972: ・• 1973:• 1975:• 1976: ・• 1977: ・• 1979: ・・• 1980:• 1981:• 1982: ・・• 1984:• 1986:• 1987: ・• 1988:• 1989:• 1993: ・• 1994:• 1995:• 1998: ・• 1999:• 2000: ・・• 2001:• 2003:• 2004: ・• 2006:• 2007:• 2009:• 2011:• 2016:• 2017:• 2019:• 1948:• 1953: ・• 1955:• 1956:• 1957:• 1959:• 1961:• 1962:• 1968:• 1971:• 1972:• 1974:• 1980:• 1983:• 1987:• 1990:• 1991: ・• 1992:• 1993:• 1994:• 1995:• 1999:• 2000:• 2002:• 2002:• 2003: ・• 2004: ・・• 2007:• 2009: ・• 2010: ・• 2011:• 2012: ・• 2013:• 2014:• 2015: ・• 2017:• 2020:.

次の

伊藤沙莉

いとう さえ り

女流二段(撮影当時)。 10月2日、棋士会みやぎ復興将棋フェスティバルにて。 奨励会時代 、小学5年で、第29回に東京都多摩地区代表で出場、で放映される決勝大会(準決勝・決勝)に進出し 、準決勝でに敗れて全国3位(優勝は佐々木勇気、準優勝は)。 準決勝を戦った伊藤と佐々木は、共にの経営する将棋道場に通っていた。 この年の小学生将棋名人戦には、他に、、、、が代表選手として出場しており、女子の代表選手は伊藤のみであった。 同年9月29日、10歳で関東に入会(6級)。 10歳での奨励会入会は女子では最年少記録である(2018年現在)。 5月、2級のとき、女流三冠の奨励会編入試験において、(当時2級)・(当時4級)とともに対戦相手を務める。 里見は初戦で加藤に敗れたが伊藤と西山に勝ち、1級での編入を決める。 2011年の奨励会(関東)例会から6連勝し、の例会で1級に昇級。 ライバルの加藤より一歩早い昇級であった。 その少し前の2011年、が『奨励会と女流棋士の重籍に関する件」について』を公表し 、「女性の奨励会員が女流棋戦にエントリーし、出場することは自由である」としたことを受け、第5期と第1期に出場。 うち、第5期マイナビ女子オープンでは、予選第6ブロック決勝で女流二段に敗れて本戦出場を逃した。 一方、第1期女流王座戦では予選を通過し、2011年7月から始まった本戦(16名によるトーナメント) では、元タイトルホルダーのを破るなどしてベスト4に進出。 しかし、の準決勝で加藤桃子との奨励会1級同士の対決で敗れた。 なお、加藤は決勝でもに勝ち、初代女流王座となった。 2013年10月12日、第7回(非公式戦)に奨励会員として初出場し、優勝した。 、日本将棋連盟から、伊藤が1級で奨励会を退会し、女流棋士に転向することが公表された。 伊藤が奨励会の年齢制限(21歳までに初段)を迎える1週間前のことであった。 本来は「奨励会2級以上で退会の場合は、退会時の段級位でそのまま女流棋士の資格を得る」という規定に基づき女流1級となるが、伊藤は第7期マイナビ女子オープンでベスト4、第1・3・4期リコー杯女流王座戦でベスト4入りしており、「女流棋士昇段級規定」の女流初段の条件を満たしているため、2014年10月1日付で、関東所属の女流棋士初段となった。 女流プロ入り後 2015年度 第5期女流王座戦は、第4期ベスト4入りによりシードされて本戦から出場し、、、里見香奈のタイトルホルダー・タイトル経験者を連破し、鬼門だったベスト4の壁を突破。 さらに、8月31日の準決勝(対 里見香奈)の勝利は、里見が更新中であった女流公式戦の最多連勝記録を21で止めた、特筆すべき一勝であった。 の挑戦者決定戦でもタイトルホルダーの に勝ち、自身初のタイトル挑戦となった。 また規定により同日付けで女流二段に昇段した。 奨励会時代からのライバルである加藤桃子との五番勝負は第6局までもつれる熱戦となったが、2勝3敗1持将棋で惜しくもタイトル獲得はならなかった。 には、第27期予選決勝でを破り、挑戦者決定リーグ入り。 リーグ戦(紅組)では3勝2敗でリーグ残留。 第43期でも予選を勝ち抜き、女流名人リーグ入りを果たした。 2016年度 第43期女流名人戦挑戦者決定リーグでは5勝4敗でリーグ残留(翌期の順位は5位)。 第28期女流王位戦挑戦者決定リーグでは、白組で優勝し 、、甲斐智美、清水市代らを連破して5戦全勝)、2017年3月13日に行われた、紅組優勝(同じく5戦全勝)のとの挑戦者決定戦を制し、2度目のタイトル挑戦を決めた。 女流棋士枠で出場した男性棋戦では、第88期棋聖戦の1次予選でに勝利した。 2017年度 第28期女流王位戦五番勝負では、里見香奈女流王位(女流五冠)に対して第4局までで2勝2敗、2015年度の第5期女流王座戦(対 加藤桃子)に続いて最終局までもつれ込む熱戦となったが、第5局で敗れた伊藤は2勝3敗で敗退。 続いて登場した第39期三番勝負、第25期倉敷藤花戦三番勝負、第44期女流名人戦五番勝負では、3シリーズともタイトル保持者の里見香奈にストレートで敗退し、初タイトル獲得はならなかった。 4シリーズ連続の敗退が決まった女流名人戦第3局(2018年2月4日)で、終局後の伊藤は涙を見せた。 2017年度の伊藤は、第44期女流名人戦挑戦者決定リーグで8連勝して最終一斉対局(9回戦)を待つことなく優勝・挑戦権獲得を決め 、6つの女流タイトル戦のうち4つに登場するなど 、 「今期、大ブレイク」 — 、 と評される活躍であった。 ただし、男性棋戦では0勝5敗の年度成績と振るわなかった。 2018年4月2日に発表された第45回(2017年度)では、優秀女流棋士賞、女流最多対局賞(41対局)を受賞した。 2018年度 第40期女流王将戦挑戦者決定戦で加藤桃子に 、第8期女流王座戦挑戦者決定戦で清水市代にそれぞれ敗れ 、挑決での敗退が続いた。 しかし、第45期女流名人戦挑戦者決定リーグで 、11月13日の最終一斉対局を7勝1敗の首位で迎え 、に勝って挑戦者決定リーグ優勝・2期連続での女流名人戦挑戦を決めた。 第1回(非公式戦)の決勝3番勝負(1月3日にで配信)で里見香奈を2勝1敗で下して優勝し、同棋戦の規定により 、男性棋戦(非公式戦)である第2回(2019年4月 - 7月に配信 )への出場権を獲得した。 2019年1月20日に開幕した 、里見香奈との第45期女流名人戦五番勝負では、第1局・第2局を連敗してストレート負けの危機に追い込まれた。 続く第3局では完勝し 、里見への連敗を10で、女流名人戦五番勝負での連敗を5でそれぞれ止めた。 しかし、2019年2月18日の第4局で敗れ、シリーズ通算1勝3敗で敗退。 一方、女流名人を防衛した里見は、女流タイトル戦最多連覇タイ記録となる10連覇(がで度に達成して以来、2人目 )を達成した。 男性棋戦では5勝5敗の年度成績(指し分け)を挙げた。 2019年4月1日に発表された第46回将棋大賞(2018年度)では、2年連続2回目となる女流最多対局賞(36対局)を受賞した。 2019年度 2019年4月26日、第1期予選5回戦でに勝ち、勝数規定(女流二段昇段後90勝)により女流三段に昇段した。 第27期では、9月24日の挑戦者決定戦でに勝ち 、里見香奈倉敷藤花への挑戦権を獲得したが 、三番勝負では1勝2敗で敗退し、初タイトル獲得ならず。 一方、倉敷藤花を防衛した里見は、本棋戦において最多タイとなる通算10期獲得を達成した。 2020年4月1日に発表された第47回将棋大賞(2019年度)では、2回目となる優秀女流棋士賞、3年連続3回目となる女流最多対局賞(46対局)を受賞した。 棋風 受けを重視する棋風で、「攻め将棋」が多い女流棋士の中では異色である。 流行に左右されず、自分ならではの「型」で戦う。 2017年度の第28期女流王位戦五番勝負(伊藤が里見香奈女流王位に挑戦)でインターネット中継の解説を務め、同じ時期に第89期棋聖戦の1次予選で伊藤(女流棋士枠で出場)と対局したは、伊藤の棋風を下記のように評した。 「接近戦に強く、混戦で力を発揮する印象」 — 大平武洋、 は、形にとらわれずに、相手の攻め駒を金銀で攻める、受けが強い棋風、と評する。 人物 ディズニー好きで 、「棋界最強のディズニーファン」と言われるほど。 特に「くまのプーさん」が好き。 昇段・昇級履歴 奨励会• 2011年8月24日 - 1級(6連勝)• 2014年9月 - 退会 女流 昇段・昇級規定は、 を参照。 2019年4月26日 - 女流三段(勝数規定) タイトル・受賞歴 獲得タイトル 登場回数7回、獲得0 一般棋戦優勝 非公式戦優勝• 第45回(2017年度)優秀女流棋士賞、女流最多対局賞• 第46回(2018年度)女流最多対局賞• 第47回(2019年度)優秀女流棋士賞、女流最多対局賞 受賞歴 脚注 注釈• 1974年(昭和49年)に第1回が行われた小学生将棋名人戦で 、女子が決勝大会(ベスト4以上)に進出した例は、(第6回、準優勝)、伊藤(第29回、3位)、(第35回、4位)の3例のみである(2018年6月現在)。 本戦トーナメント準決勝の勝者2名が五番勝負を戦い、その勝者が初代女流王座となった。 ライバルの加藤桃子は2014年5月に奨励会初段に昇段した。 伊藤は最終一斉対局(9回戦)も勝ち、第44期女流名人戦挑戦者決定リーグを9戦全勝で終えた。 2014年9月30日付の日本将棋連盟の公式発表『伊藤沙恵奨励会1級が10月より女流初段に』には、「この度、伊藤沙恵奨励会1級(20歳)が奨励会を退会し、女流棋士への資格申請書を提出しました。 」とあり、奨励会を退会した日付は記載されていない。 なお、伊藤は2014年9月21日の関東奨励会例会に出席している(2勝1敗)。 2014年9月30日. 2018年4月16日時点のよりアーカイブ。 2018年4月16日閲覧。 将棋情報局. 2018年7月8日時点のよりアーカイブ。 2018年7月8日閲覧。 2017年8月19日時点のよりアーカイブ。 2017年8月19日閲覧。 「」『』。 2018年6月28日閲覧。 の2018-6-28時点におけるアーカイブ。 2017年8月19日時点のよりアーカイブ。 2017年8月19日閲覧。 2011年5月21日. 2018年4月16日時点のよりアーカイブ。 2018年4月16日閲覧。 2018年7月8日時点のよりアーカイブ。 2018年7月8日閲覧。 2011年5月27日. 2018年7月8日時点のよりアーカイブ。 2018年7月8日閲覧。 2013年10月15日. 2018年2月4日時点のよりアーカイブ。 2018年2月5日閲覧。 2015年8月31日. 2017年6月28日時点のよりアーカイブ。 2017年6月28日閲覧。 古川徹雄「第44期岡田美術館杯女流名人戦第3局 里見、盤石の3連勝で9連覇を飾る」、『』(2018年4月号)、 pp. 140-146• 日本語. 2018年2月5日. の2018年5月6日時点におけるアーカイブ。 2018年5月6日閲覧。 2017年10月24日. 2018年2月4日時点のよりアーカイブ。 2018年2月5日閲覧。 2019年1月4日時点のよりアーカイブ。 2019年1月4日閲覧。 文春オンライン. 2019年4月2日時点のよりアーカイブ。 2019年4月2日閲覧。 「」『』、2018年4月2日。 2018年4月2日閲覧。 の2018-4-2時点におけるアーカイブ。 2018年9月9日. 2018年11月13日時点のよりアーカイブ。 2018年10月6日閲覧。 2018年9月10日. 2018年11月13日時点のよりアーカイブ。 2018年10月6日閲覧。 日本語. 2018年11月20日. の2018年11月20日時点におけるアーカイブ。 2018年11月20日閲覧。 2018年11月13日. の2018年11月13日時点におけるアーカイブ。 2018年11月13日閲覧。 ・将棋「」『』。 2018年11月13日閲覧。 の2018-11-13時点におけるアーカイブ。 2018年11月17日時点のよりアーカイブ。 2019年1月3日閲覧。 2019年4月11日. 2019年5月24日時点のよりアーカイブ。 2019年5月24日閲覧。 2019年1月3日時点のよりアーカイブ。 2019年1月3日閲覧。 2019年1月21日. 2019年2月19日時点のよりアーカイブ。 2019年2月19日閲覧。 www. shogi. 2019年2月19日閲覧。 2019年2月19日. 2019年2月19日時点のよりアーカイブ。 2019年2月19日閲覧。 2019年2月11日. 2019年2月19日時点のよりアーカイブ。 2019年2月19日閲覧。 2019年2月19日. 2019年2月19日時点のよりアーカイブ。 2019年2月19日閲覧。 2019年4月1日. 2019年4月2日時点のよりアーカイブ。 2019年4月2日閲覧。 2019年5月7日. 2019年5月7日時点のよりアーカイブ。 2019年5月7日閲覧。 2019年9月24日. 2019年11月23日時点のよりアーカイブ。 2019年11月23日閲覧。 2019年11月25日時点のよりアーカイブ。 2019年11月25日閲覧。 2020年4月1日. 2020年4月1日時点のよりアーカイブ。 2020年4月1日閲覧。 2019年1月19日. 2019年1月19日時点のよりアーカイブ。 2019年1月19日閲覧。 2018年1月11日. 2018年2月4日時点のよりアーカイブ。 2018年2月5日閲覧。 2019年6月8日. 2019年6月8日時点のよりアーカイブ。 2019年6月8日閲覧。 2018年11月23日時点のよりアーカイブ。 2018年11月23日閲覧。 外部リンク•

次の

いとう祐一郎

いとう さえ り

スポンサーリンク 伊藤沙莉 プロフィール (画像引用元:) 生年月日 1994年5月4日 出生地 千葉県 身長 151 cm 血液型 A型 職業 女優 ジャンル 映画、テレビドラマ 活動期間 2003年~ 事務所 アルファエージェンシー 特技のダンスでは2003年「ALL Japan Dance Contest」の東京予選、及びサンリオダンスコンテストのキッズ部門で優勝するほどの実力を持っています。 そんな伊藤沙莉さんは2003年放送のドラマ「14ヶ月~妻が子供に還っていく~」で芸能界デビューします。 このデビューを作では、当時わずか9歳で演技未経験ながらも話題となり子役として注目集めていきます。 そのため、以降は2005年ドラマ「みんな昔は子供だった」「女王の教室」等に出演して子役として活躍します。 2006年には映画「イヌゴエ 幸せの肉球」で映画初出演、2007年「兎のダンス」で初主演を飾っています。 その後もコンスタントにドラマ・映画等と出演して経験を積み、2017年には連続テレビ小説「ひよっこ」に出演したりと、子役から脱却して女優として活躍しています。 伊藤沙莉が脱いでる!獣道で脱いだ理由や画像は? 伊藤沙莉さんは実際に2017年7月15日公開の 映画「獣道」で、初めて上半身を堂々と脱いでいます。 そのため、妥協しない演技として監督の要望で上半を脱いだり等と体当たりの演技をしています。 (画像引用元:) ただあまりにも過激すぎたせいか、撮影中に警察からプロデューサー宛に「撮影を中止しろ」という電話があったりと色々やばかったようです。 スポンサーリンク 伊藤沙莉が脱いだ理由は? 伊藤沙莉さんも当初は脱ぐのはためらっていたようでしたが、 監督や脚本家等とお互いが納得するまでとことん話し合って脱いだとのことでした。 「二つ返事で答えられれば格好良かったんですけど、簡単なことではなかったので、悩みました。 監督に脱ぐ意味とか、なぜ下着じゃ駄目なのか、とか無駄に聞きましたね。 肝が据わってねえなと思われるのが嫌で、ギリギリまで聞きたくなかったけど、そう思ってる時点でヘタレなので」 当初の伊藤沙莉さんは脱ぐのを悩み、下着じゃ駄目なのかと打診案を出していました。 しかし、監督は脱ぐことに関しては無理強いはしていなかったようですが、「下着という中途半端な選択をするぐらいなら、シーン自体をなくそう」と提案してきました。 「好きなシーンだったので、なくなるのは嫌だなと思いました。 そこまで私のことを思っていただいてるのに応えなければ、もはや愛衣は演じられないと。 撮影が始まる直前に決めました」 そんな監督の思いに、伊藤沙莉さんはちゃんと演じきりたいと思い、撮影が始まるギリギリで脱ぐことを決めたのでした。 伊藤沙莉が獣道で脱いでる!理由は監督の覚悟を聞き演じきりたいから! 伊藤沙莉さんは映画「獣道」で脱いじゃってますが、これも監督や様々なスタッフの思いに応えて演じきるためだったようです。 こうして伊藤沙莉さんは子役から大人の女優へとどんどん進化しているんですね。 みなさんももし、興味があれば映画「獣道」を見てはいかがでしょうか? そして、女優としてさらに伊藤沙莉さんが活躍することを期待しています。 せばな~.

次の