美空 ひばり。 プロフィール

Amazon

美空 ひばり

[生]1937. 横浜 [没]1989. 東京 歌手,女優。 本名加藤和枝。 子供の頃から地方劇場をまわって歌い,1948年横浜国際劇場に進出。 翌 49年8月映画『踊る竜宮城』に出演し,その主題歌『河童ブギウギ』でレコード・デビューを果す。 9月に初主演した映画『悲しき口笛』は,第2次世界大戦後の混乱を生抜く少女を描いて同名の主題歌とともに大ヒットした。 以後日本コロムビア・レコードと専属契約を結び,次々とヒット曲を出す一方,雪村いづみ,江利チエミとトリオを組んで活躍。 その後,熱狂的なファンに塩酸をかけられるなど,不運の時期を経て,「歌謡界の女王」と称される存在となった。 代表曲『リンゴ追分』『柔 やわら,1965年日本レコード大賞受賞 』『悲しい酒』などをはじめ,全作品は 1000曲以上に及ぶ。 没後,女性初のが贈られた。 本名加藤和枝。 49年9月,《》に続く2枚目の《悲しき》をコロムビアレコードから発売,続いて10月にはこれをとするの同名主演映画も公開されて これが初の主演映画。 出典 株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版について の解説 歌手、女優。 本名加藤和枝 かずえ。 幼時から歌が大好きで、1946年(昭和21)9月、生地の横浜で初めて舞台に立つ。 1949年、映画『のど自慢狂時代』に出演して注目され、同年コロムビア入社。 レコード吹き込みの第一作は『河童 かっぱ ブギウギ』。 天才少女歌手として出演した映画『悲しき口笛』『東京キッド』『リンゴ園の少女』『あの丘越えて』は主題歌ともども大ヒットした。 映画・舞台に活躍、比類ない歌唱力で、戦後の歌謡界に大きな足跡を残した。 その他の代表曲に『悲しい酒』『柔 やわら 』など。 平成元年6月24日没。 国民栄誉賞が追贈された。

次の

美空ひばり(みそらひばり)とは

美空 ひばり

ヤマハはNHK主導のプロジェクトに参加。 機械学習の一種であるディープラーニング(深層学習)を駆使して美空ひばりさんの歌声を再現し、作詞家の秋元康さんがプロデュースした新曲「あれから」を、9月29日に放送されたNHKの番組内で披露した。 生前の歌唱データや話声から美空ひばりさんの歌い方、話し方の癖を学習し、本人が歌ったことのない歌でも本人らしく歌うシステムをのだ。 番組が放送されたあと、Twitterでは「美空ひばり」がトレンド入りし、歌声合成技術、倫理、美空ひばりさんの音楽など、さまざまな視点から多くの議論を巻き起こしている。 歌声そのものに対しては「美空ひばりさんに似ている」「合成音声っぽさが残っていて残念」など、賛否が分かれている。 「思わず涙が出た」と、その歌声に感動する人もいれば、「テクノロジーを駆使した降霊術のようだ」と、故人をよみがえらせることへの恐怖や違和感を覚えた人も多かったようだ。 ヤマハの研究者は何を考え、この技術を開発し新曲を公開したのか。 今回は、実際に開発に携わったヤマハの研究者である大道さんと才野慶二郎さんにその裏側を詳しく聞いた。 才野慶二郎さん(第一研究開発部 AIグループ 主事、写真左)と、大道竜之介さん(第一研究開発部 AIグループ 主任、写真右) 歌い方や癖まで再現 方法は 大道さんと才野さんはヤマハの研究開発統括部に属する研究者だ。 今回のプロジェクトでは大道さんが歌声合成、才野さんが話声の合成を主に担当した。 ディープラーニングを使うことで、それまでの手法では難しかった、声色の変化や歌い方の癖を再現できるようになった。 今回ヤマハが作った技術を使えば、美空ひばりさんの新曲を好きに作れる。 番組内では新曲「あれから」の他に、映画「アナと雪の女王」の主題歌「Let It Go〜ありのままで〜」も披露された。 当然、美空ひばりさん本人はこれらの曲を歌ったことがないが、まるで本人が歌ったかのような音声を再現できる。 ディープラーニングを使って歌声を合成するには、あらかじめ手本として美空ひばりさんの歌声をコンピュータに学習させる必要がある。 NHKの協力もあって、歌声の参考となる楽曲は日本コロムビアから、話声の参考となる音声は、美空ひばりさんの息子さんから提供された。 日本コロムビアから提供されたのは約1500の楽曲。 息子さんから提供されたのは、生前の美空ひばりさんが自宅でカセットテープに録音した音声だ。 仕事で家を空けるとき、自宅で待つ息子が寂しがらないように物語を朗読して残していた音声が、約2時間分保管されていた。 家族や関係者の合意のもと、これらのデータをコンピュータに読み込ませ、学習モデルを作った。

次の

美空ひばりの死因の真相!息子・加藤和也の現在は?

美空 ひばり

それを実現させた技術は、ヤマハのと呼ばれるものである。 そこでは、深層学習技術(ディープラーニング)という技術が用いられている。 ディープラーニングとは、シンプルに言うと、過去の美空ひばりの歌や映像をたくさん機械に聞かせたり見せたりして、それに高度な統計処理をして、「美空ひばりらしさ」の要素を抽出し、再現させるというものである。 AIと言いつつも、意識や自我を持っているわけではない。 本質は「統計」である。 この「AI美空ひばり」を巡って、「死者への冒瀆だ」という意見も出た。 故人の遺志に反し、言ってないことを言ったことにされたり、歌ってない曲を歌ったことにするわけであるから、そのような意見が出るのは当然だ。 懸念すべきは、故人が「改変」されること? 昨今では「ディープフェイク」という技術もあり、政治家などが言っていないことをさも言っているように見せる動画なども作れるし、かなり出回っている。 こうして過去の政治家や偉人などが次々とAIで再現され、現在に都合のいい発言をさせられる可能性については、想像に難くない。 一応、現段階では、紅白歌合戦を見て感想を述べている多くの人は、「AI美空ひばり」と「美空ひばり」の区別は付いているだろう。 しかし、だ。 オリジナルの美空ひばりの記憶が、新しいイメージに無意識に侵食されていくことも、容易に想像がつくのではあるまいか。 それは確かに、死者や、過去に対する冒瀆と言えるかもしれない。 現在の自分たちに都合が良いように、過去や死者を改変するということなのだから。 人間はいつでも、死者を蘇らせてきた。 とはいえ、少し引いた目で考えると、亡くなった人の一部をテクノロジーで残すこと自体は人類がずっと行ってきたことだ。 今では当たり前のように「遺影」があるが、これは写真が発明されるまでは存在しないものだった。 あるいは故人の考えが残されたものとして、「書物」がある。 既に死んで存在しない人の思考や感覚の一部を、書物を私たちが読む度に一部蘇えらせることができるのが、「書物」である。 これも、文字や紙、印刷技術が発明されたことによって実現したものである。 もちろん、AI美空ひばりは、過去のテクノロジーによる「死者の蘇り」と段違いのリアルさがある。 そうした要素も人を不安にさせているのだろう。 とはいえ、歴史上ずっとテクノロジーの発展に伴って、死者はいつでも蘇らされてきた。 死者があたかもこの世界に生き続けるかのように近づけようとすることは——AI時代であれば、それは故人が生きていた頃の「記録」を超えた、生前はしなかった新しいアクションをも含む——、人類の進歩の歴史の中で、必然的な方向性であると考えることもできる。 つまり、議論すべきポイントは、AI美空ひばりが「アリ」か「ナシ」か、ではなく、今後のテクノロジーの進展によって我々の「死生観」はどう変わるのか、その変化の良し悪しであろう。 AI 時代の、生者と「死者」との関係は? 今後、私たちは生前にたくさんのデータを残して死ぬだろう。 TwitterやFacebookに「言葉」を残しているし、Instagramには写真を、YouTubeには動画を残している。 AIのディープラーニングが安価で手軽になれば、それらの膨大な「ライフログ」によって遺族が死者をAI化することは十分にありうる(既にそのようなサービスを開発している会社はいくつもある)。 仏壇を拝んだときに、遺影ではなくデジタルの画面の中で、動いて会話できる存在になることは十分にありうる。 こうなると、「死」の重みが変わる。 生者にとって、死が「二度と会えない」「決定的」な瞬間であると言う感覚は薄まるだろう。 死んだ後もAIによって、表情も思考もあるように見える存在と対話ができるからだ。 子どもの成長とAIの深層学習が「同じ」に見える。 「死」の意味が変われば、「生」の重みも変わる。 ディープラーニングとは、人間の脳を模した数式モデル(ニューラルネットワーク)に、たくさん情報を与えてたくさん統計処理させて何かを「理解」させるものだ。 果たして人間の脳も、それとどれだけ違うというのだろうか。 ぼくはいま子育てをしていて、一歳半になろうとする息子がいるが、彼が学習していく過程を見ていると、ディープラーニングと近いのではないかと思うことがある。 たとえば「ワンワン」という言葉を覚える。 最初は、動物全般に「ワンワン」と言っているが、そのうちに「ニャンニャン」や「ウサギ」と区別が付いてくる。 ぼくがいちいち、「犬というのはこういうもので、猫というものはこういうもので、その違いは……」と説明したわけではない。 歩いている犬や、絵本などで繰り返し「犬」の絵柄を見て、それに対して親などが「ワンワン」と教えるのを繰り返すことによって、彼は「ワンワン」という概念を手に入れている。 「ワンワン」には多くの種類がある。 ゴールデンレトリバー、チワワ、秋田犬、土佐犬など。 様々な形、色、大きさのこれらを共通して括る「犬」という概念を、この子は(というか我々みなは)どうやって手に入れているのだろうか? そしてそれが「猫」「キツネ」などと異なるという差異を、どうやって認識しているのだろう? 多分、ものすごくたくさんの図像を繰り返し見て、「これはワンワン」「これはニャンニャン」などと聞いているうちに、概念の特徴が抽出されていくのだろう。 このような、人間の概念・認識の獲得の仕方と、機械による深層学習は、とてもよく似ているように思う(AIの方が人間に似せたのだから当然だが)。 テクノロジーの進化は「死生観」をも変える。 そうすると、人間の知能やひょっとすると精神も、実は神秘的なものでもなんでもなく、機械による統計処理のようなものが高度化したものにすぎないのでは、という考えに移行するのではないか。 中世のヨーロッパでは、人間は神の一部であると考えられたりしていたし、日本でもアニミズム的な感覚が信仰されていた。 しかし今後はそのような自己認識ではなく、むしろもっと殺風景で計数的な、ドライな人間観・生命観に移行していくことが容易に推測される。 テクノロジーへの理解が、生命への認知を変えていくのだ。 実は産業革命が起こった蒸気機関の時代には、人間は蒸気機関のようなものだと考えられた。 デカルトも、人間の身体や動物が「機械」であると考えた一人だ。 こうして、科学的な知見や、生活に実装されるテクノロジーの影響を受けて、変化してきた人間の「死生観」。 おそらく今後の日本では、死者と生者とAIとキャラクターが漠然と混ざり合った死生観が生まれる、とぼくは考えている。 昨今の若い世代を見ていると、アニメのキャラクターや、バーチャルYouTuberなどにも「生命感」「存在感」を覚えているようだ。 こうした大衆的な想像力の中で、境界が曖昧な死生観が、自覚されることもなく発展していくだろう。 それはサブカルチャーの中に現れ、世代が後退していくに連れて、徐々に「サブ」ではないカルチャーにまで影響を及ぼしていくことが想像される。 そのとき、何が起きるだろうか。 生と死への「謙虚さ」を忘れてはなるまい ここまで述べてきたような「死生観」の変化は免れ得ない未来だろう。 とはいえ、一方で個人的には、同時代に隆盛したテクノロジーによる理解の枠組みを投影するだけだと、生命や知性を「過小評価」することにもなるのではないか、と危惧する。 「AI美空ひばりを自然に受け入れる価値観に変わっていくよね」、で終わらせるのはまずい。 なぜなら宇宙が生まれ、どこかの段階で地球が生まれ、そこにあった無機物がいつのまにか生命になり、増殖を繰り返すようになり、単純な生物だったものが、長い年月でここまで多様化、複雑化した理由について、それがなんのためなのか、私たちは未だに理解していないからだ。 AIがもっと発展すれば、そのような創造や進化の謎にまで手が届く日がいつか来るのかもしれない。 AIによって人間が自身を理解する助けになってくれる点には興奮させられる。 しかし、だ。 死も生も、たかが現代に流行しているパラダイムで理解し尽くせるほどに小さいものではないだろう。 死生観の変化が必然だとしても、そのことへの謙虚さは、忘れない方がいいと思う。

次の