寒いですね 夏目漱石。 夏目漱石がI LOVE YOUを「月が綺麗ですね」と訳した理由

夏目漱石の父親、母親、兄弟は?実家の先祖や家系図や生い立ちは?

寒いですね 夏目漱石

人の世 を作ったものは神でもなければ鬼でもない。 矢張り向ふ三軒兩隣りにちらちらする唯の人である。 唯の人が作つた 人の世 が住みにくいからとて、越す國はあるまい。 あれば 人でなし の國へ行く許りだ。 人でなし の國は 人の世 よりも猶住みにくからう。 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容 (くつろげ) て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。 ここに詩人といふ天職が出來て、ここに 畫 家といふ使命が降る。 あらゆる藝術の士は人の世を長閑 (のどか) にし、人の心を豊かにするが故に尊 (たつ) とい。 住みにくき世から、住みにくき煩ひを引き拔いて、難有い世界をまのあたりに寫すのが詩である、畫である。 あるは音樂と彫刻である。 こまかに云へば寫さないでもよい。 只まのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。 着想を紙に落さぬとも璆鏘 (きうさう) の音 (おん) は胸裏に起る。 丹青は畫架に向つて塗沫せんでも五彩の絢爛は自 (おのづ) から心眼に映る。 只おのが住む世を、かく觀じ得て、靈臺方寸のカメラに澆季 (げうき) 溷濁 (こんだく) の俗界を清くうららかに收め得れば足る。 世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知つた。 二十五年にして明暗は表裏の如く、日のあたる所には屹度 (きつと) 影がさすと悟つた。 三十の今日 (こんにち) はかう思ふて居る。 之を切り放さうとすると身が持てぬ。 片付けやうとすれば世が立たぬ。 金は大事だ、大事なものが殖えれば寐る間も心配だらう。 戀はうれしい、嬉しい戀が積もれば、戀をせぬ昔がかへつて戀しかろ。 閣僚の肩は數百萬人の足を支へて居る。 脊中には重い天下がおぶさつて居る。 うまい物も食はねば惜しい。 少し食へば飽き足らぬ。 存分食へばあとが不愉快だ。 …… 余の考がこゝ迄漂流して來た時に、余の右足は突然坐りのわるい角石の端を踏み損くなつた。 平衡を保す爲めに、すはやと前に飛び出した左足が、仕損じの埋め合せをすると共に、余の腰は具合よく方三尺程な岩の上に卸 (お) りた。 肩にかけた繪の具箱が腋の下から躍り出した丈で、幸ひと何の事もなかつた。 立ち上る時に向ふを見ると、路から左の方にバケツを伏せた樣な峯が聳えて居る。 杉か檜か分からないが根元から頂き迄悉く蒼黑い中に、山櫻が薄赤くだんだらに棚引いて、續ぎ目が確と見えぬ位靄が濃い。 少し手前に禿山が一つ、群を拔きんでゝ眉に逼る。 禿げた側面は巨人の斧で削り去つたか、鋭どき平面をやけに谷の底に埋めて居る。 天邊に一本見えるのは赤松だらう。 枝の間の空さへ判然して居る。 行く手は二丁程で切れて居るが、高い所から赤い毛布 (けつと) が動いて來るのを見ると、登ればあすこへ出るのだらう。 路は頗る難義だ。 土をならす丈なら左程手間も入るまいが、土の中には大きな石がある。 土は平らにしても石は平らにならぬ。 石は切り碎いても、岩は始末がつかぬ。 堀崩した土の上に悠然と峙 (そばだ) つて、吾等の爲めに道を讓る景色はない。 向ふで聞かぬ上は乘り越すか、廻らなければならん。 巖 (いは) のない所でさへ歩るきよくはない。 左右が高くつて、中心が窪んで、丸で一間幅を三角に穿 (く) つて、其頂點が眞中を貫いてゐると評してもよい。 路を行くと云はんより川底を渉ると云ふ方が適當だ。 固より急ぐ旅ではないから、ぶらぶらと七曲りへかゝる。 忽ち足の下で雲雀の聲がし出した。 谷を見下 (みおろ) したが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。 只聲だけが明らかに聞える。 せつせと忙 (せは) しく、絶間なく鳴いて居る。 方幾里の空氣が一面に蚤に刺されて居たゝまれない樣な氣がする。 あの鳥の鳴く音 (ね) には瞬時の餘裕もない。 のどかな春の日を鳴き盡くし、鳴きあかし、又鳴き暮らさなければ氣が濟まんと見える。 其上どこ迄も登つて行く、いつ迄も登つて行 (ゆ) く。 雲雀は屹度雲の中で死ぬに相違ない。 登り詰めた揚句は、流れて雲に入 (い) つて、漂ふて居るうちに形は消えてなくなつて、只聲丈が空の裡 (うち) に殘るのかも知れない。 巖角を鋭どく廻つて、按摩なら眞逆樣に落つる所を、際どく右へ切れて、横に見下すと、菜の花が一面に見える。 雲雀はあすこへ落ちるのかと思つた。 いゝや、あの黄金 (こがね) の原から飛び上がつてくるのかと思つた。 次には落ちる雲雀と、上 (あが) る雲雀が十文字にすれ違ふのかと思つた。 最後に、落ちる時も、上る時も、また十文字に擦れ違ふときにも元氣よく鳴きつゞけるだらうと思つた。 春は眠くなる。 猫は鼠を捕る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。 時には自分の魂の居所さへ忘れて正體なくなる。 只菜の花を遠く望んだときに眼が醒める。 雲雀の聲を聞いたときに魂のありかゞ判然する。 雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全體が鳴くのだ。 魂の活動が聲にあらはれたものゝうちで、あれ程元氣のあるものはない。 あゝ愉快だ。 かう思つて、かう愉快になるのが詩である。 忽ちシエレーの雲雀の詩を思ひ出して、口のうちで覺えた所だけ暗誦して見たが、覺えて居る所は二三句しかなかつた。 其二三句のなかにこんなのがある。 We look before and after And pine for what is not : Our sincerest laughter With some pain is fraught ; Our sweetest songs are those that tell of saddest thought. 「前を見ては、後 (しり) へを見ては、物欲しと、あこがる ゝ かなわれ。 腹からの、笑といへど、苦しみの、そこにあるべし。 うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想、籠るとぞ知れ」 成程いくら詩人が幸福でも、あの雲雀の樣に思ひ切つて、一心不亂に、前後を忘却して、わが喜びを歌ふ譯には行 (ゆ) くまい。 西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく萬斛の愁など ゝ云ふ字がある。 詩人だから 萬斛で素人なら一合で濟むかも知れぬ。 して見ると詩人は常の人よりも苦勞性で、凡骨の倍以上に神經が鋭敏なのかも知れん。 超俗の喜びもあらうが、無量の悲も多からう。 そんならば詩人になるのも考へ物だ。 しばらくは路が平で、右は雜木山、左は菜の花の見つゞけである。 足の下に時々蒲公英を踏みつける。 鋸の樣な葉が遠慮なく四方へのして眞中に黄色な珠を擁護して居る。 菜の花に氣をとられて、踏みつけたあとで、氣の毒な事をしたと、振り向いて見ると、黄色な珠は依然として鋸のなかに鎭座して居る。 呑氣なものだ。 又考へをつゞける。 詩人に憂はつきものかも知れないが、あの雲雀を聞く心持になれば微塵の苦もない。 菜の花を見ても、只うれしくて胸が躍る許りだ。 かう山の中へ來て自然の景物に接すれば、見るものも聞くものも面白い。 面白い丈で別段の苦しみも起らぬ。 起るとすれば足が草臥れて、旨いものが食べられぬ位の事だらう。 然し苦しみのないのは何故だらう。 只此景色を一幅の畫 (ゑ) として觀、一巻の詩として讀むからである。 畫 (ぐわ) であり詩である以上は地面を貰つて、開拓する氣にもならねば、鐵道をかけて一儲けする了見も起らぬ。 自然の力は是に於て尊 (たつ) とい。 吾人の性情を瞬刻に陶冶して醇乎として醇なる詩境に入 (い) らしむるのは自然である。 戀はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛國も結構だらう。 然し自身が其局に當れば利害の旋風 (つむじ) に捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んで仕舞ふ。 從つてどこに詩があるか自身には解 (げ) しかねる。 これがわかる爲めには、わかる丈の餘裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。 三者の地位に立てばこそ芝居は觀て面白い。 小説も見て面白い。 芝居を見て面白い人も、小説を讀んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げて居る。 見たり讀んだりする間丈は詩人である。 それすら、普通の芝居や小説では人情を免かれぬ。 苦しんだり、怒つたり、騒いだり、泣いたりする。 見るものもいつか其中に同化して苦しんだり、怒つたり、騒いだり、泣いたりする。 取柄は利慾が交らぬと云ふ點に存するかも知れぬが、交らぬ丈に其他の情緒 (じやうしよ) は常よりは餘計に活動するだらう。 それが嫌だ。 苦しんだり、怒つたり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。 余も三十年の間それを仕通して、飽々 (あきあき) した。 飽き々々した上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大變だ。 余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞する樣なものではない。 俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。 いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少からう。 どこ迄も世間を出る事が出來ぬのが彼等の特色である。 ことに西洋の詩になると、人事が根本になるから所謂詩歌の純粹なるものも此境を解脱する事を知らぬ。 どこ迄も同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勸工場 (くわんこうば) にあるものだけで用を辨じて居る。 いくら詩的になつても地面の上を馳けあるいて、錢の勘定を忘れるひまがない。 シエレーが雲雀を聞いて嘆息したのも無理はない。 うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。 採菊東籬下、悠然見南山。 只それぎりの裏 (うち) に暑苦しい世の中を丸で忘れた光景が出てくる。 垣の向ふに隣りの娘が覗いてる譯でもなければ、南山に親友が奉職して居る次第でもない。 超然と出世間的に利害損得の汗を流し去つた心持ちになれる。 獨坐幽篁裏、彈琴復長嘯、深林人不知、明月來相照。 只二十字のうちに優に別乾坤を建立して居る。 此乾坤の功德は「不如歸」や「金色夜叉」の功德ではない。 汽船、汽車、權利、義務、道德、禮義で疲れ果てた後、凡てを忘却してぐつすりと寐込む樣な功德である。 二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀に此出世間的の詩味は大切である。 惜しい事に今の詩を作る人も、詩を讀む人もみんな、西洋人にかぶれて居るから、わざわざ呑気な扁舟を泛べて此桃源に溯るものはない樣だ。 余は固より詩人を職業にして居らんから、王維や淵明の境界を今の世に布敎して廣げやうと云ふ心掛も何もない。 只自分にはかう云ふ感興が演藝會よりも舞踏會よりも藥になる樣に思はれる。 フアウストよりも、ハムレツトよりも難有く考へられる。 かうやつて、只一人繪の具箱と三脚几を擔いで春の山路 (やまぢ) をのそのそあるくのも全く之が爲めである。 淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遙したいからの願。 一つの醉興だ。 勿論人間の一分子だから、いくら好きでも、非人情はさう長く續く譯には行 (い) かぬ。 淵明だつて年が年中南山を見詰めて居たのでもあるまいし、王維も好んで竹藪の中に蚊帳を釣らずに寐た男でもなからう。 矢張り餘つた菊は花屋へ賣りこかして、生えた筍は八百屋へ拂ひ下げたものと思ふ。 かう云ふ余も其通り。 いくら雲雀と菜の花が氣に入つたつて、山のなかへ野宿する程非人情が募つては居らん。 こんな所でも人間に逢ふ。 じんじん端折 (ばしよ) りの頰冠りや、赤い腰巻の姉 (あね) さんや、時には人間より顔の長い馬に迄逢ふ。 百萬本の檜に取り圍まれて、海面を拔く何百尺かの空氣を呑んだり吐いたりしても、人の臭ひは中々取れない。 夫れ所か、山を越えて落ちつく先の、今宵の宿は那古井の温泉場 (をんせんば) だ。 唯、物は見樣でどうでもなる。 レオナルド、ダ、 ヸ ンチが弟子に告げた言 (ことば) に、あの鐘の音を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある。 一人の男、一人の女も見樣次第で如何様 (いかやう) とも見立てがつく。 どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、其積りで人間を見たら、浮世小路の何軒目に狹苦しく暮した時とは違ふだらう。 よし全く人情を離れる事が出來んでも、責めて御能拜見の時位は淡い心持ちにはなれさうなものだ。 能にも人情はある。 七騎落 (しちきおち) でも、墨田川でも泣かぬとは保證が出來ん。 然しあれは情三分藝七分で見せるわざだ。 我等が能から享ける難有味は下界の人情をよく 其儘に寫す手際から出てくるのではない。 其儘の上へ藝術といふ着物を何枚も着せて、世の中にあるまじき悠長な振舞をするからである。 しばらく此旅中に起る出來事と、旅中に出逢ふ人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだらう。 丸で人情を棄てる譯には行 (い) くまいが、根が詩的に出來た旅だから、非人情のやり序でに、可成 (なるべく) 節儉してそこ迄は漕ぎ付けたいものだ。 南山や幽篁とは性 (たち) の違つたものに相違ないし、又雲雀や菜の花と一所にする事も出來まいが、可成 (なるべく) 之 (これ) に近づけて、近づけ得る限りは同じ觀察點から人間を視てみたい。 芭蕉と云ふ男は枕元へ馬が屎 (いばり) するのをさへ雅 (が) な事と見立てゝ發句にした。 尤も畫中の人物と違つて、彼等はおのがじゝ勝手な眞似をするだらう。 然し普通の小説家の樣に其勝手な眞似の根本を探ぐつて、心理作用に立ち入つたり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。 動いても構はない。 畫中の人間が動くと見れば差し支 (つかへ) ない。 畫中の人物はどう動いても平面以外に出られるものでない。 平面以外に飛び出して、立方的に働くと思へばこそ、此方 (こつち) と衝突したり、利害の交渉が起つたりして面倒になる。 面倒になればなる程美的に見て居る譯に行 (い) かなくなる。 是から逢ふ人間には超然と遠き上から見物する氣で、人情の電氣が無暗に双方で起らない樣にする。 さうすれば相手がいくら働いても、こちらの懷 (ふところ) には容易に飛び込めない譯だから、つまりは畫の前に立つて、畫中の人物が畫面の中 (うち) をあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ譯になる。 間三尺も隔てゝ居 (を) れば落ち付いて見られる。 あぶな氣なしに見られる。 言 (ことば) を換へて云へば、利害に氣を奪はれないから、全力を擧げて彼等の動作を藝術の方面から觀察する事が出來る。 餘念もなく美か美でないかと鑒識する事が出來る。 こゝ迄決心をした時、空があやしくなつて來た。 煮え切れない雲が、頭の上へ靠垂 (もた) れ懸つて居たと思つたが、いつのまにか、崩れ出して、四方は只雲の海かと怪しまれる中から、しとしとと春の雨が降り出した。 菜の花は疾 (と) くに通り過して、今は山と山の間を行 (ゆ) くのだが、雨の糸が濃 (こまや) かで殆んど霧を欺く位だから、隔たりはどれ程かわからぬ。 時々風が來て、高い雲を吹き拂ふとき、薄黑い山の脊が右手に見える事がある。 何でも谷一つ隔てゝ向ふが脉の走つて居る所らしい。 左はすぐ山の裾と見える。 深く罩 (こ) める雨の奥から松らしいものが、ちよくちよく顔を出す。 出すかと思ふと、隱れる。 雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか、何となく不思議な心持ちだ。 路は存外廣くなつて、且つ平だから、あるくに骨は折れんが、雨具の用意がないので急ぐ。 帽子から雨垂れがぽたりぽたりと落つる頃、五六間先きから、鈴の音 (おと) がして、黑い中から、馬子がふうとあらはれた。 「こゝらに休む所はないかね」 「もう十五丁行 (ゆ) くと茶屋がありますよ。 大分濡れたね」 まだ十五丁かと、振り向いて居るうちに、馬子の姿は影畫の樣に雨につゝまれて、又ふうと消えた。 糠の樣に見えた粒は次第に太く長くなつて、今は一筋毎に風に捲かれる樣迄が目に入 (い) る。 羽織はとくに濡れ盡して肌着に浸み込んだ水が、身體の温度 (ぬくもり) で生暖く感ぜられる。 氣持がわるいから、帽を傾けて、すたすた歩行 (ある) く。 茫々たる薄墨色の世界を、幾條の銀箭が斜めに 走るなかを、ひたぶるに濡れて行 (ゆ) くわれを、われならぬ人の姿と思へば、詩にもなる、句にも咏まれる。 有體なる己れを忘れ盡して純客觀に眼をつくる時、始めてわれは畫中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ。 只降る雨の心苦しくて、踏む足の疲れたるを氣に掛ける瞬間に、われは既に詩中の人にもあらず、畫裡の人にもあらず。 依然として市井の一豎子に過ぎぬ。 雲烟飛動の趣も眼に入 (い) らぬ。 落花啼鳥の情けも心に浮ばぬ。 蕭々として獨り春山 (しゆんざん) を行 (ゆ) く吾の、いかに美しきかは猶更に解 (かい) せぬ。 初めは帽を傾けて 歩行 (あるい) た。 後には唯足の甲のみを見詰めてあるいた。 終りには肩をすぼめて、恐る恐る歩行 (あるい) た。 雨は滿目の樹梢を搖 (うご) かして四方より孤客 (こかく) に逼る。 非人情がちと強過ぎた樣だ。 二 「おい」と聲を掛けたが返事がない。 軒下から奥を覗くと煤けた障子が立て切つてある。 向ふ側は見えない。 五六足の草鞋が淋しさうに庇から吊されて、屈托氣 (くつたくげ) にふらりふらりと搖れる。 下に駄菓子の箱が三つ許り並んで、そばに五厘錢と文久錢が散らばつて居る。 「おい」と又聲をかける。 土間の隅に片寄せてある臼の上に、ふくれて居た鷄が、驚いて眼をさます。 クヽヽ、クヽヽと騒ぎ出す。 敷居の外に土竈 (どべつつひ) が、今しがたの雨に濡れて、半分程色が變つてる上に、眞黑な茶釜がかけてあるが、土の茶釜か、銀の茶釜かわからない。 幸ひ下は焚きつけてある。 返事がないから、無斷でずつと這入つて、床几の上へ腰を卸した。 鷄は羽搏きをして臼から飛び下りる。 今度は疊の上へあがつた。 障子がしめてなければ奥迄馳 (か) けぬける氣かも知れない。 雄が太い聲でこけつこつこと云ふと、雌が細い聲でけゝつこつこと云ふ。 丸で余を狐か狗の樣に考へてゐるらしい。 床几の上には一升枡程な煙草盆が閑靜に控へて、中にはとぐろを捲いた線香が、日の移るのを知らぬ顔で、頗る悠長に燻 (いぶ) つて居る。 雨は次第に収まる。 しばらくすると、奥の方から足音がして、煤けた障子がさらりと開 (あ) く。 なかゝら一人の婆さんが出る。 どうせ誰か出るだらうとは思つて居た。 竈 (へつい) に火は燃えてゐる。 菓子箱の上に錢が散らばつて居る。 線香は呑気に燻つてゐる。 どうせ出るには極つてゐる。 しかし自分の見世 (みせ) を明け放しても苦にならないと見える所が、少し都とは違つてゐる。 返事がないのに床几に腰をかけて、いつ迄も待つてるのも少し二十世紀とは受け取れない。 こゝらが非人情で面白い。 其上出て來た婆さんの顔が氣に入つた。 二三年前 (ぜん) 寶生の舞臺で高砂を見た事がある。 その時これはうつくしい活人畫だと思つた。 箒を擔いだ爺さんが橋懸りを五六歩來て、そろりと後向になつて、婆さんと向ひ合ふ。 その向ひ合ふた姿勢が今でも眼につく。 余の席からは婆さんの顔が殆んど眞むきに見えたから、あゝうつくしいと思つた時に、其表情はぴしゃりと心のカメラへ燒き付いて仕舞つた。 茶店の婆さんの顔は此寫眞に血を通はした程似て居る。 「御婆さん、此所を一寸借りたよ」 「はい、是は、一向存じませんで」 「大分降つたね」 「生憎な御天気で、嘸 (さぞ) 御困りで御座んしよ。 おゝおゝ大分御濡れなさつた。 今火を焚いて乾かして上げましよ」 「そこをもう少し燃し付けてくれゝば、あたりながら乾かすよ。 どうも少し休んだら寒くなつた」 「へえ、只今焚いて上げます。 まあ御茶を一つ」 と立ち上がりながら、しつしつと二聲で鷄を追ひ下げる。 こゝゝゝと馳け出した夫婦は、焦茶色の疊から、駄菓子箱の中を踏みつけて、徃來へ飛び出す。 雄の方が逃げるとき駄菓子の上へ糞を垂れた。 「まあ一つ」と婆さんはいつの間にか刳り拔き盆の上に茶碗をのせて出す。 茶の色の黑く焦げて居る底に、一筆がきの梅の花が三輪無雜作に燒き付けられて居る。 「御菓子を」と今度は鶏の踏みつけた胡麻ねぢと微塵棒を持つてくる。 糞はどこぞに着いて居 (を) らぬかと眺めて見たが、それは箱のなかに取り殘されてゐた。 婆さんは袖無しの上から、襷をかけて、竈 (へつつひ) の前へうづくまる。 余は懷から寫生帖を取り出して、婆さんの横顔を寫しながら、話しをしかける。 「閑靜でいゝね」 「へえ、御覧の通りの山里で」 「鶯は鳴くかね」 「えゝ毎日の樣に鳴きます。 此邊 (こゝら) は夏も鳴きます」 「聞きたいな。 「さあ、御あたり。 嘸 (さぞ) 御寒かろ」と云ふ。 軒端を見ると靑い烟りが、突き當つて崩れながらに、微かな痕 (あと) をまだ板庇にからんで居る。 「あゝ、好い心持ちだ、御蔭で生き返つた」 「いゝ具合に雨も晴れました。 そら天狗巖 (てんぐいは) が見え出しました」 逡巡として曇り勝ちなる春の空を、もどかしと許りに吹き拂ふ山嵐の、思ひ切りよく通り拔けた前山 (ぜんざん) の一角は、未練もなく晴れ盡して、老嫗 (らうう) の指さす方に 岏 (さんぐわん) と、あら削りの柱の如く聳えるのが天狗岩ださうだ。 余はまづ天狗巖を眺めて、次に婆さんを眺めて、三度目には半々に兩方を見比べた。 畫家として余が頭のなかに存在する婆さんの顔は高砂の媼 (ばゞ) と、蘆雪のかいた山姥のみである。 蘆雪の圖を見たとき、理想の婆さんは物凄いものだと感じた。 紅葉 (もみぢ) のなかゝ、寒い月の下に置くべきものと考へた。 寶生の別能會を觀るに及んで、成程老女にもこんな優しい表情があり得るものかと驚ろいた。 あの面は定めて名人の刻んだものだらう。 惜しい事に作者の名は聞き落したが、老人もかうあらはせば、豐かに、穩やかに、あたゝかに見える。 金屏にも、春風にも、あるは櫻にもあしらつて差し支ない道具である。 余は天狗岩よりは、腰をのして、手を翳 (かざ) して、遠く向ふを指 (ゆびさ) してゐる、袖無し姿の婆さんを、春の山路 (やまぢ) の景物として恰好なものだと考へた。 余が寫生帖を取り上げて、今暫くといふ途端に、婆さんの姿勢は崩れた。 手持無沙汰に寫生帖を、火にあてゝ乾かしながら、 「御婆さん、丈夫さうだね」と訊ねた。 「はい。 然しそんな注文も出來ぬから、 「こゝから那古井迄は一里足らずだつたね」と別な事を聞いて見る。 「はい、二十八丁と申します。 旦那は湯治に御越しで……」 「込み合はなければ、少し逗留しやうかと思ふが、まあ氣が向けばさ」 「いえ、戰爭が始まりましてから、頓と參るものは御座いません。 丸で締め切り同樣で御座います」 「妙な事だね。 それぢや泊めて呉れないかも知れんね」 「いえ、御頼みになればいつでも宿 (と) めます」 「宿屋はたつた一軒だつたね」 「へえ、志保田さんと御聞きになればすぐわかります。 村のものもちで、湯治場だか、隱居所だかわかりません」 「ぢや御客がなくても平氣な譯だ」 「旦那は始めてゞ」 「いや、久しい以前一寸行つた事がある」 會話はちよつと途切れる。 帳面をあけて先刻 (さつき) の鷄を靜かに寫生して居ると、落ち付いた耳の底へぢやらんぢやらんと云ふ馬の鈴が聽え出した。 此聲がおのづと、拍子をとつて頭の中に一種の調子が出來る。 眠りながら、夢に隣りの臼の音に誘はれる樣な心持ちである。 余は鷄の寫生をやめて、同じページの端 (はじ) に、 春風や惟然が耳に馬の鈴 と書いて見た。 山を登つてから、馬には五六匹逢つた。 逢つた五六匹は皆腹掛をかけて、鈴を鳴らして居る。 今の世の馬とは思はれない。 やがて長閑な馬子唄が、春に更けた空山一路の夢を破る。 憐れの底に氣樂な響がこもつて、どう考へても畫にかいた聲だ。 馬子唄の鈴鹿越ゆるや春の雨 と、今度は斜 (はす) に書き付けたが、書いて見て、是は自分の句でないと氣が付いた。 「又誰ぞ來ました」と婆さんが半ば獨り言の樣に云ふ。 只一條 (ひとすぢ) の春の路だから、行 (ゆ) くも歸るも皆近付きと見える。 最前逢ふた五六匹のぢやらんぢやらんも悉く此婆さんの腹の中で又誰ぞ來たと思はれては山を下り、思はれては山を登つたのだらう。 路 (みち) 寂寞 (じやくまく) と古今の春を貫いて、花を厭へば足を着くるに地なき小村に、婆さんは幾年 (いくねん) の昔からぢやらん、ぢやらんを數へ盡くして、今日 (こんにち) の白頭に至つたのだらう。 馬子唄や白髮も染めで暮るゝ春 と次のページへ認 (したゝ) めたが、是では自分の感じを云ひ終 (おほ) せない、もう少し工夫のありさうなものだと、鉛筆の先を見詰めながら考へた。 何でも 白髮といふ字を入れて、 幾代の節 (ふし) と云ふ句を入れて、 馬子唄といふ題も入れて、春の季も加へて、それを十七字に纏めたいと工夫して居るうちに、 「はい、今日 (こんにち) は」と實物の馬子が店先に留つて大きな聲をかける。 「おや源さんか。 又城下へ行 (い) くかい」 「何か買物があるなら頼まれて上げよ」 「さうさ、鍛冶町 (かぢちやう) を通つたら、娘に靈嚴寺 (れいがんじ) の御札を一枚もらつてきて御呉れなさい」 「はい、貰つてきよ。 一枚か。 な、御叔母 (おば) さん」 「難有い事に今日 (こんにち) には困りません。 まあ仕合せと云ふのだろか」 「仕合せとも、御前 (おまへ)。 あの那古井の孃さまと比べて御覧」 「本當に御氣の毒な。 あんな器量を持つて。 近頃はちつとは具合がいゝかい」 「なあに、相變らずさ」 「困るなあ」と婆さんが大きな息をつく。 「困るよう」と源さんが馬の鼻を撫でる。 枝繁き山櫻の葉も花も、深い空から落ちた儘なる雨の塊まりを、しつぽりと宿して居たが、此時わたる風に足をすくはれて、居たゝまれずに、假りの住居 (すまひ) を、さらさらと轉げ落ちる。 馬は驚ろいて、長い鬣 (たてがみ) を上下 (うへした) に振る。 「コーラツ」と叱り付ける源さんの聲が、ぢやらん、ぢやらんと共に余の瞑想を破る。 御婆さんが云ふ。 「源さん、わたしや、お嫁入りのときの姿が、まだ眼前 (めさき) に散らついて居る。 裾模樣の振袖に、高島田で、馬に乘つて……」 「さうさ、船ではなかつた。 馬であつた。 矢張り此所 (こゝ) で休んで行つたな、御叔母 (おば) さん」 「あい、其櫻の下で孃樣の馬がとまつたとき、櫻の花がほろほろと落ちて、折角の島田に斑 (ふ) が出來ました」 余は又寫生帖をあける。 此景色は畫にもなる、詩にもなる。 心のうちに花嫁の姿を浮べて、當時の樣を想像して見てしたり顔に、 花の頃を越えてかしこし馬に嫁 と書き付ける。 不思議な事には衣裳も髮も馬も櫻もかつきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思ひつけなかつた。 しばらくあの顔か、この顔か、と思案して居るうちに、ミレーのかいた、オフエリヤの面影が忽然と出て來て、高島田の下へすぽりとはまつた。 是は駄目だと、折角の圖面を早速取り崩す。 衣装も髮も馬も櫻も一瞬間に心の道具立から奇麗に立ち退いたが、オフエリヤの合掌して水の上を流れて行 (ゆ) く姿丈は、朦朧と胸の底に殘つて、棕櫚箒で烟を拂ふ樣に、さつぱりしなかつた。 空に尾を曳く彗星の何となく妙な氣になる。 「それぢや、まあ御免」と源さんが挨拶する。 「歸りに又御寄り。 生憎の降りで七曲りは難義だろ」 「はい、少し骨が折れよ」と源さんは歩行 (あるき) 出す。 源さんの馬も歩行出す。 ぢやらんぢやらん。 「あれは那古井の男かい」 「はい、那古井の源兵衛で御座んす」 「あの男がどこぞの嫁さんを馬へ乘せて、峠を越したのかい」 「志保田の孃樣が城下へ御輿入 (おこしいれ) のときに、孃樣を靑馬 (あを) に乘せて、源兵衛が覇絏 (はづな) を牽いて通りました。 指を折つて始めて、五年の流光に、轉輪の疾き趣を解し得たる婆さんは、人間としては寧ろ仙に近づける方だらう。 余は斯う答へた。 「嘸 (さぞ) 美くしかつたらう。 見にくればよかつた」 「ハヽヽ今でも御覧になれます。 湯治場へ御越しなされば、屹度出て御挨拶をなされませう」 「はあ、今では里に居るのかい。 矢張り裾模樣の振袖を着て、高島田に結 (い) つて居ればいゝが」 「たのんで御覧なされ。 着て見せましよ」 余はまさかと思つたが、婆さんの樣子は存外眞面目である。 非人情の旅にはこんなのが出なくては面白くない。 婆さんが云ふ。 「孃樣と長良の乙女とはよく似て居ります」 「顔がかい」 「いゝえ。 身の成り行きがで御座んす」 「へえ、其長良の乙女と云ふのは何者かい」 「昔し此村に長良の乙女と云ふ、美くしい長者の娘が御座りましたさうな」 「へえ」 「所が其娘に二人の男が一度に懸想して、あなた」 「なる程」 「さゝだ男に靡かうか、さゝべ男に靡かうかと、娘はあけくれ思ひ煩つたが、どちらへも靡きかねて、とうとう あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも と云ふ歌を咏んで、淵川へ身を投げて果てました」 余はこんな山里へ來て、こんな婆さんから、こんな古雅な言葉で、こんな古雅な話をきかうとは思ひがけなかつた。 「是から五丁東へ下ると、道端に五輪塔が御座んす。 序に長良の乙女の墓を見て御行 (おい) きなされ」 余は心のうちに是非見て行かうと決心した。 婆さんは、そのあとを語りつゞける。 「那古井の孃樣にも二人の男が祟りました。 所へ今度の戰爭で、旦那様の勤めて御出の銀行がつぶれました。 それから孃樣は又那古井の方へ御歸りになります。 世間では孃樣の事を不人情だとか、薄情だとか色々申します。 もとは極々内氣の優しいかたが、此頃では大分氣が荒くなつて、何だか心配だと源兵衛が來るたびに申します。 ……」 是からさきを聞くと、折角の趣向が壞れる。 漸く仙人になりかけた所を、誰か來て羽衣を歸せ歸せと催促する樣な氣がする。 七曲りの險を冒して、やつとの思で、こゝまで來たものを、さう無暗に俗界に引きずり下 (おろ) されては、飄然と家を出た甲斐がない。 世間話しもある程度以上に立ち入ると、浮世の臭ひが毛孔から染込んで、垢で身體が重くなる。 「御婆さん、那古井へは一筋道だね」と十錢銀貨を一枚床几の上へかちりと投げ出して立ち上がる。 「長良の五輪塔から右へ御下りなさると、六丁程の近道になります。 路はわるいが、御若い方には其方がよろしかろ。 2. 『草枕』は、明治39年9月1日発行の『新小説』で発表されました。 3. 「二」の中に出てくる の漢字は、 音、サン。 岏(さんがん)とは、 「ごつごつした山のこと」と漢和辞書にあります。 上記の岩波の全集の巻末 の注解には、「切りたったような山のこと」とあります。 なお、「 」 (山+賛) の漢字は、島根県立大学の を使用しま した。 4. 原文の、平仮名の「く」を縦に長くした形の繰り返し符号(踊り字・くの字点) は、 普通の仮名に改めました。 (「ちらちら」、及び「愈」のルビの「いよいよ」など) 5 . 全 集の原文は総ルビ ですが、ここでは一部の漢字のルビのみを残して、 他は省略しました。 (ルビは、括弧に入れて示しました。 ) 6 . 文中の下線の部分は、原文では傍点になっている所です。 7 . 「背中」が「脊中」になっているのは、原文のままです。 また、能や謡曲の 「墨田川」は、「隅田川」「角田川」とも書くそうです。 ここで、岩波の全集の「注解」から、漱石の勘違いと思われる箇所に触れて おきます。 じんじん端折り……爺端折りの転というから、正しくは「ぢんぢん……」 枕元へ馬が屎 (いばり) する……「屎」は「尿」が正しい。 箒を擔いだ爺さん……漱石の記憶の誤りで、これは「高砂」の能のシテツレ 姥 (うば) でなければならない。 婆さん……この方が前シテの尉 (じょう) で、宝生流では竹把 (さらえ、熊手) を担 いで出る。 8 . なお、『草枕』の全文を、電子図書館で読むことができます。 9 . 熊本国府高等学校PC同好会の制作したホームページ があり、そこに「草枕の旅」・「熊本時代の漱石」などのページがあって参考に なります。 10 . 熊本県玉名市の ホームページに というページがあって、草枕に関するいろいろな資料が用意されています。 11. 奈良国立博物館の ホームページで、松岡映丘及びその一門が描いた全3巻 の『草枕絵巻』の映像を見ることができます。 この 「夏目漱石ライブラリー」には、「夏目漱石について」「漱石文庫について」 「漱石文庫目録」「漱石文庫関係文献目録」のページがあります。 13. は、夏目漱石旧蔵書(東北大学「漱石文庫」を含む) について言及している文献を収集したもので、該当部分の記事を抜粋して収録し てあります。 14. という、漱石関連の情報を集めたページがあります。 15. ロンドン漱石記念館は、2016年9月末で一時休館していたそうですが、2018年 夏に再オープンするそうです。 『小林恭子の英国メディア・ウオッチ』というブログに、ロンドン漱石記念館の 紹介記事があって、参考になります。 17 .漱石が泊まった小天温泉ののホームページがあり、漱石に関す る写真や記述があって、参考になります。 18. カナダの天才ピアニスト グレン・グールドが漱石の『草枕』を愛読していた という事実は、よく知られています。 朝日新聞記者の横田庄一郎氏は、その著『「草枕」変奏曲 夏目漱石とグレン・ グールド 』 (1998年5月30日、朔北社発行)の「はじめに」の中で、「この人ほど 『草枕』を愛読したという話をほかには聞かない。 しかも日本人ではなく、外国 人であり、世界的な著名人でもある。 カナダに生まれてカナダに没した、実に個性あふれる人物であった。 彼はこの 漱石の『草枕』を「二十世紀の小説の最高傑作の一つ」と評価し、死に至るまで 手元に置いて愛読していたのである。 」と書いておられます。 というホームページがあ ります。 グールドに興味をお持ちの方はどうぞ。 グールドの演奏(ベートーベン の「ゴールドベルク変奏曲」)が3分間ほど聴けるサイトの紹介もあります。 19. というサイトの「会ってみたいな、この人に」(銅 像巡り・銅像との出会い)に、新宿区早稲田南町の漱石公園(漱石山房跡)にあ るや、漱石誕生の地の紹介などがあります。 20. 渡部芳紀先生の(夏目漱石文学散歩)があります。 (参考).

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夏目漱石年譜|東北大学附属図書館

寒いですね 夏目漱石

一 ぶらりと両手を 垂 ( さ )げたまま、 圭 ( けい )さんがどこからか帰って来る。 「どこへ行ったね」 「ちょっと、町を 歩行 ( ある )いて来た」 「何か 観 ( み )るものがあるかい」 「寺が一軒あった」 「それから」 「 銀杏 ( いちょう )の 樹 ( き )が一本、 門前 ( もんぜん )にあった」 「それから」 「 銀杏 ( いちょう )の樹から本堂まで、一丁半ばかり、石が敷き詰めてあった。 非常に細長い寺だった」 「 這入 ( はい )って見たかい」 「やめて来た」 「そのほかに何もないかね」 「別段何もない。 いったい、寺と云うものは大概の村にはあるね、君」 「そうさ、人間の死ぬ所には必ずあるはずじゃないか」 「なるほどそうだね」と圭さん、首を 捻 ( ひね )る。 圭さんは時々妙な事に感心する。 しばらくして、 捻 ( ひ )ねった首を 真直 ( まっすぐ )にして、圭さんがこう云った。 「それから 鍛冶屋 ( かじや )の前で、馬の 沓 ( くつ )を 替 ( か )えるところを見て来たが実に 巧 ( たく )みなものだね」 「どうも寺だけにしては、ちと、時間が長過ぎると思った。 馬の沓がそんなに珍しいかい」 「珍らしくなくっても、見たのさ。 君、あれに使う道具が幾通りあると思う」 「幾通りあるかな」 「あてて見たまえ」 「あてなくっても 好 ( い )いから教えるさ」 「何でも七つばかりある」 「そんなにあるかい。 何と何だい」 「何と何だって、たしかにあるんだよ。 第一爪をはがす 鑿 ( のみ )と、鑿を 敲 ( たた )く 槌 ( つち )と、それから爪を 削 ( けず )る小刀と、爪を 刳 ( えぐ )る 妙 ( みょう )なものと、それから……」 「それから何があるかい」 「それから変なものが、まだいろいろあるんだよ。 第一馬のおとなしいには驚ろいた。 あんなに、削られても、刳られても平気でいるぜ」 「爪だもの。 人間だって、平気で爪を 剪 ( き )るじゃないか」 「人間はそうだが馬だぜ、君」 「馬だって、人間だって爪に変りはないやね。 君はよっぽど 呑気 ( のんき )だよ」 「呑気だから見ていたのさ。 しかし薄暗い所で赤い鉄を打つと 奇麗 ( きれい )だね。 ぴちぴち火花が出る」 「出るさ、東京の真中でも出る」 「東京の真中でも出る事は出るが、感じが違うよ。 こう云う山の中の鍛冶屋は第一、音から違う。 そら、ここまで聞えるぜ」 初秋 ( はつあき )の 日脚 ( ひあし )は、うそ寒く、遠い国の方へ 傾 ( かたむ )いて、 淋 ( さび )しい山里の空気が、心細い夕暮れを 促 ( うな )がすなかに、かあんかあんと鉄を打つ音がする。 「聞えるだろう」と圭さんが云う。 「うん」と 碌 ( ろく )さんは答えたぎり 黙然 ( もくねん )としている。 隣りの部屋で何だか二人しきりに話をしている。 「そこで、その、相手が 竹刀 ( しない )を落したんだあね。 すると、その、ちょいと、 小手 ( こて )を取ったんだあね」 「ふうん。 とうとう小手を取られたのかい」 「とうとう小手を取られたんだあね。 ちょいと小手を取ったんだが、そこがそら、 竹刀 ( しない )を落したものだから、どうにも、こうにもしようがないやあね」 「ふうん。 竹刀を落したのかい」 「竹刀は、そら、さっき、落してしまったあね」 「竹刀を落してしまって、小手を取られたら困るだろう」 「困らああね。 竹刀も小手も取られたんだから」 二人の話しはどこまで行っても竹刀と小手で持ち切っている。 黙然 ( もくねん )として、 対坐 ( たいざ )していた圭さんと碌さんは顔を見合わして、にやりと笑った。 かあんかあんと鉄を打つ音が静かな村へ響き渡る。 癇走 ( かんばし )った上に何だか心細い。 「まだ馬の 沓 ( くつ )を打ってる。 何だか寒いね、君」と圭さんは白い 浴衣 ( ゆかた )の下で堅くなる。 碌さんも同じく 白地 ( しろじ )の 単衣 ( ひとえ )の 襟 ( えり )をかき合せて、だらしのない 膝頭 ( ひざがしら )を 行儀 ( ぎょうぎ )よく 揃 ( そろ )える。 やがて圭さんが云う。 「僕の小供の時住んでた町の真中に、一軒 豆腐屋 ( とうふや )があってね」 「豆腐屋があって?」 「豆腐屋があって、その豆腐屋の 角 ( かど )から一丁ばかり 爪先上 ( つまさきあ )がりに上がると 寒磬寺 ( かんけいじ )と云う御寺があってね」 「寒磬寺と云う御寺がある?」 「ある。 今でもあるだろう。 門前から見るとただ 大竹藪 ( おおたけやぶ )ばかり見えて、本堂も 庫裏 ( くり )もないようだ。 その御寺で毎朝四時頃になると、誰だか 鉦 ( かね )を 敲 ( たた )く」 「誰だか鉦を敲くって、坊主が敲くんだろう」 「坊主だか何だか分らない。 ただ竹の中でかんかんと 幽 ( かす )かに敲くのさ。 冬の朝なんぞ、 霜 ( しも )が強く降って、 布団 ( ふとん )のなかで世の中の寒さを一二寸の厚さに 遮 ( さえ )ぎって聞いていると、竹藪のなかから、かんかん響いてくる。 誰が敲くのだか分らない。 僕は寺の前を通るたびに、長い 石甃 ( いしだたみ )と、倒れかかった 山門 ( さんもん )と、山門を 埋 ( うず )め尽くすほどな大竹藪を見るのだが、一度も山門のなかを 覗 ( のぞ )いた事がない。 ただ竹藪のなかで敲く鉦の音だけを聞いては、夜具の 裏 ( うち )で 海老 ( えび )のようになるのさ」 「海老のようになるって?」 「うん。 海老のようになって、口のうちで、かんかん、かんかんと云うのさ」 「妙だね」 「すると、門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を明ける。 ぎっぎっと豆を 臼 ( うす )で 挽 ( ひ )く音がする。 ざあざあと豆腐の水を 易 ( か )える音がする」 「君の 家 ( うち )は全体どこにある 訳 ( わけ )だね」 「僕のうちは、つまり、そんな音が聞える所にあるのさ」 「だから、どこにある訳だね」 「すぐ 傍 ( そば )さ」 「豆腐屋の 向 ( むこう )か、隣りかい」 「なに二階さ」 「どこの」 「豆腐屋の二階さ」 「へええ。 そいつは……」と碌さん驚ろいた。 「僕は豆腐屋の子だよ」 「へええ。 豆腐屋かい」と碌さんは再び驚ろいた。 「それから垣根の朝顔が、茶色に枯れて、引っ張るとがらがら鳴る時分、白い 靄 ( もや )が一面に降りて、町の 外 ( はず )れの 瓦斯灯 ( ガスとう )に 灯 ( ひ )がちらちらすると思うとまた 鉦 ( かね )が鳴る。 かんかん竹の奥で 冴 ( さ )えて鳴る。 それから門前の豆腐屋がこの鉦を合図に、 腰障子 ( こししょうじ )をはめる」 「門前の豆腐屋と云うが、それが君のうちじゃないか」 「僕のうち、すなわち門前の豆腐屋が腰障子をはめる。 かんかんと云う声を聞きながら僕は二階へ上がって 布団 ( ふとん )を敷いて 寝 ( ね )る。 近所で評判だった」 隣り座敷の 小手 ( こて )と 竹刀 ( しない )は双方ともおとなしくなって、向うの 椽側 ( えんがわ )では、六十余りの 肥 ( ふと )った 爺 ( じい )さんが、丸い 背 ( せ )を柱にもたして、 胡坐 ( あぐら )のまま、毛抜きで 顋 ( あご )の 髯 ( ひげ )を一本一本に抜いている。 髯の根をうんと 抑 ( おさ )えて、ぐいと抜くと、毛抜は下へ 弾 ( は )ね返り、 顋 ( あご )は上へ 反 ( そ )り返る。 まるで器械のように見える。 「あれは 何日 ( いくか )掛ったら抜けるだろう」と碌さんが圭さんに質問をかける。 「一生懸命にやったら半日くらいで済むだろう」 「そうは行くまい」と碌さんが反対する。 「そうかな。 じゃ 一日 ( いちんち )かな」 「一日や 二日 ( ふつか )で 奇麗 ( きれい )に抜けるなら 訳 ( わけ )はない」 「そうさ、ことによると一週間もかかるかね。 見たまえ、あの丁寧に顋を 撫 ( な )で廻しながら抜いてるのを」 「あれじゃ。 古いのを抜いちまわないうちに、新しいのが 生 ( は )えるかも知れないね」 「とにかく痛い事だろう」と圭さんは 話頭 ( わとう )を転じた。 「痛いに違いないね。 忠告してやろうか」 「なんて」 「よせってさ」 「余計な事だ。 それより 幾日 ( いくか )掛ったら、みんな抜けるか聞いて見ようじゃないか」 「うん、よかろう。 君が聞くんだよ」 「僕はいやだ、君が聞くのさ」 「聞いても 好 ( い )いがつまらないじゃないか」 「だから、まあ、よそうよ」と圭さんは自己の 申 ( もう )し 出 ( だ )しを 惜気 ( おしげ )もなし撤回した。 一度 途切 ( とぎ )れた 村鍛冶 ( むらかじ )の音は、今日山里に立つ秋を、 幾重 ( いくえ )の 稲妻 ( いなずま )に 砕 ( くだ )くつもりか、かあんかあんと澄み切った空の底に響き渡る。 「あの音を聞くと、どうしても豆腐屋の音が思い出される」と圭さんが腕組をしながら云う。 世の中には頭のいい豆腐屋が何人いるか分らない。 それでも 生涯 ( しょうがい )豆腐屋さ。 気の毒なものだ」 「それじゃ何だい」と碌さんが小供らしく質問する。 「何だって君、やっぱりなろうと思うのさ」 「なろうと思ったって、世の中がしてくれないのがだいぶあるだろう」 「だから気の毒だと云うのさ。 不公平な世の中に生れれば仕方がないから、世の中がしてくれなくても何でも、自分でなろうと思うのさ」 「思って、なれなければ?」 「なれなくっても何でも思うんだ。 思ってるうちに、世の中が、してくれるようになるんだ」と圭さんは 横着 ( おうちゃく )を云う。 「そう注文通りに 行 ( い )けば結構だ。 ハハハハ」 「だって僕は今日までそうして来たんだもの」 「だから君は豆腐屋らしくないと云うのだよ」 「これから先、また豆腐屋らしくなってしまうかも知れないかな。 厄介 ( やっかい )だな。 ハハハハ」 「なったら、どうするつもりだい」 「なれば世の中がわるいのさ。 不公平な世の中を公平にしてやろうと云うのに、世の中が云う事をきかなければ、 向 ( むこう )の方が悪いのだろう」 「しかし世の中も何だね、君、豆腐屋がえらくなるようなら、自然えらい者が豆腐屋になる訳だね」 「えらい者た、どんな者だい」 「えらい者って云うのは、何さ。 例 ( たと )えば 華族 ( かぞく )とか金持とか云うものさ」と碌さんはすぐ様えらい者を説明してしまう。 「うん華族や金持か、ありゃ今でも豆腐屋じゃないか、君」 「その豆腐屋 連 ( れん )が馬車へ乗ったり、別荘を建てたりして、自分だけの世の中のような顔をしているから駄目だよ」 「だから、そんなのは、本当の豆腐屋にしてしまうのさ」 「こっちがする気でも向がならないやね」 「ならないのをさせるから、世の中が公平になるんだよ」 「公平に出来れば結構だ。 大いにやりたまえ」 「やりたまえじゃいけない。 君もやらなくっちゃあ。 自分が豆腐屋の癖に」と圭さんはそろそろ 慷慨 ( こうがい )し始める。 「君はそんな目に 逢 ( あ )った事があるのかい」 圭さんは腕組をしたままふふんと云った。 村鍛冶の音は 不相変 ( あいかわらず )かあんかあんと鳴る。 「まだ、かんかん 遣 ( や )ってる。 「君の腕は昔から太いよ。 そうして、いやに黒いね。 豆を 磨 ( ひ )いた事があるのかい」 「豆も磨いた、水も 汲 ( く )んだ。 謝まらさす事が出来れば、謝まらさす方がいいだろう」 「それを気違の方で謝まれって云うのは驚ろくじゃないか」 「そんな気違があるのかい」 「今の豆腐屋 連 ( れん )はみんな、そう云う気違ばかりだよ。 人を圧迫した上に、人に頭を下げさせようとするんだぜ。 本来なら 向 ( むこう )が恐れ入るのが人間だろうじゃないか、君」 「無論それが人間さ。 しかし気違の豆腐屋なら、うっちゃって置くよりほかに仕方があるまい」 圭さんは再びふふんと云った。 しばらくして、 「そんな気違を増長させるくらいなら、世の中に生れて来ない方がいい」と 独 ( ひと )り 言 ( ごと )のようにつけた。 村鍛冶の音は、会話が切れるたびに静かな里の 端 ( はじ )から端までかあんかあんと響く。 「しきりにかんかんやるな。 どうも、あの音は 寒磬寺 ( かんけいじ )の 鉦 ( かね )に似ている」 「妙に気に掛るんだね。 その寒磬寺の鉦の音と、気違の豆腐屋とでも何か関係があるのかい。 少し話して聞かせないか」 「聞かせてもいいが、何だか寒いじゃないか。 ちょいと 夕飯 ( ゆうめし )前に 温泉 ( ゆ )に 這入 ( はい )ろう。 君いやか」 「うん這入ろう」 圭さんと碌さんは 手拭 ( てぬぐい )をぶら下げて、庭へ降りる。 棕梠緒 ( しゅろお )の 貸下駄 ( かしげた )には都らしく宿の 焼印 ( やきいん )が押してある。 二 「この湯は何に 利 ( き )くんだろう」と豆腐屋の 圭 ( けい )さんが 湯槽 ( ゆぶね )のなかで、ざぶざぶやりながら聞く。 「何に利くかなあ。 分析表を見ると、何にでも利くようだ。 やがて、 「味も何もない」と云いながら、流しへ吐き出した。 「飲んでもいいんだよ」と 碌 ( ろく )さんはがぶがぶ飲む。 圭さんは 臍 ( へそ )を洗うのをやめて、湯槽の 縁 ( ふち )へ 肘 ( ひじ )をかけて 漫然 ( まんぜん )と、 硝子越 ( ガラスご )しに外を眺めている。 碌さんは首だけ湯に 漬 ( つ )かって、相手の臍から上を見上げた。 「どうも、いい 体格 ( からだ )だ。 全く 野生 ( やせい )のままだね」 「豆腐屋出身だからなあ。 体格が 悪 ( わ )るいと華族や金持ちと 喧嘩 ( けんか )は出来ない。 こっちは一人 向 ( むこう )は大勢だから」 「さも喧嘩の相手があるような 口振 ( くちぶり )だね。 当 ( とう )の 敵 ( てき )は誰だい」 「誰でも構わないさ」 「ハハハ 呑気 ( のんき )なもんだ。 喧嘩にも強そうだが、足の強いのには 驚 ( おどろ )いたよ。 君といっしょでなければ、きのうここまでくる勇気はなかったよ。 実は途中で 御免蒙 ( ごめんこうむ )ろうかと思った」 「実際少し気の毒だったね。 あれでも僕はよほど加減して、 歩行 ( ある )いたつもりだ」 「本当かい? はたして本当ならえらいものだ。 すぐ付け上がるからいやだ」 「ハハハ付け上がるものか。 付け上がるのは華族と金持ばかりだ」 「また華族と金持ちか。 眼の 敵 ( かたき )だね」 「金はなくっても、こっちは天下の豆腐屋だ」 「そうだ、いやしくも天下の豆腐屋だ。 野生の腕力家だ」 「君、あの窓の外に咲いている黄色い花は何だろう」 碌さんは湯の中で首を 捩 ( ね )じ向ける。 「かぼちゃさ」 「馬鹿あ云ってる。 かぼちゃは地の上を 這 ( は )ってるものだ。 あれは竹へからまって、風呂場の屋根へあがっているぜ」 「屋根へ上がっちゃ、かぼちゃになれないかな」 「だっておかしいじゃないか、今頃花が咲くのは」 「構うものかね、おかしいたって、屋根にかぼちゃの花が咲くさ」 「そりゃ 唄 ( うた )かい」 「そうさな、前半は唄のつもりでもなかったんだが、後半に至って、つい唄になってしまったようだ」 「屋根にかぼちゃが 生 ( な )るようだから、豆腐屋が馬車なんかへ乗るんだ。 不都合千万だよ」 「また 慷慨 ( こうがい )か、こんな山の中へ来て慷慨したって始まらないさ。 それより早く 阿蘇 ( あそ )へ登って噴火口から、赤い岩が飛び出すところでも見るさ。 何でも、 沢庵石 ( たくあんいし )のような岩が真赤になって、空の中へ吹き出すそうだぜ。 それが三四町四方一面に吹き出すのだから 壮 ( さか )んに違ない。 「ともかくも六時に起きて……」 「六時に起きる?」 「六時に起きて、七時半に湯から出て、八時に飯を食って、八時半に便所から出て、そうして宿を出て、十一時に 阿蘇神社 ( あそじんじゃ )へ 参詣 ( さんけい )して、十二時から登るのだ」 「へえ、誰が」 「僕と君がさ」 「何だか君 一人 ( ひと )りで登るようだぜ」 「なに構わない」 「ありがたい仕合せだ。 まるで 御供 ( おとも )のようだね」 「うふん。 時に昼は何を食うかな。 やっぱり 饂飩 ( うどん )にして置くか」と圭さんが、あすの 昼飯 ( ひるめし )の相談をする。 「饂飩はよすよ。 ここいらの饂飩はまるで 杉箸 ( すぎばし )を食うようで腹が 突張 ( つっぱ )ってたまらない」 「では 蕎麦 ( そば )か」 「蕎麦も御免だ。 僕は 麺類 ( めんるい )じゃ、とても 凌 ( しの )げない男だから」 「じゃ何を食うつもりだい」 「何でも 御馳走 ( ごちそう )が食いたい」 「 阿蘇 ( あそ )の山の中に御馳走があるはずがないよ。 だからこの際、ともかくも饂飩で間に合せて置いて……」 「この際は少し変だぜ。 この際た、どんな際なんだい」 「剛健な趣味を養成するための旅行だから……」 「そんな旅行なのかい。 ちっとも知らなかったぜ。 剛健はいいが饂飩は 平 ( ひら )に不賛成だ。 こう見えても僕は身分が 好 ( い )いんだからね」 「だから 柔弱 ( にゅうじゃく )でいけない。 僕なぞは学資に窮した時、一日に白米二合で間に合せた事がある」 「 痩 ( や )せたろう」と碌さんが気の毒な事を聞く。 「そんなに痩せもしなかったがただ 虱 ( しらみ )が 湧 ( わ )いたには困った。 身分が違わあ」 「まあ経験して見たまえ。 そりゃ容易に 猟 ( か )り尽せるもんじゃないぜ」 「煮え湯で 洗濯 ( せんたく )したらよかろう」 「煮え湯? 煮え湯ならいいかも知れない。 しかし洗濯するにしてもただでは出来ないからな」 「なあるほど、 銭 ( ぜに )が一 文 ( もん )もないんだね」 「一文もないのさ」 「君どうした」 「仕方がないから、 襯衣 ( シャツ )を敷居の上へ乗せて、手頃な丸い石を拾って来て、こつこつ 叩 ( たた )いた。 そうしたら 虱 ( しらみ )が死なないうちに、襯衣が破れてしまった」 「おやおや」 「しかもそれを宿のかみさんが見つけて、僕に退去を命じた」 「さぞ困ったろうね」 「なあに困らんさ、そんな事で困っちゃ、今日まで生きていられるものか。 これから追い追い華族や金持ちを豆腐屋にするんだからな。 滅多 ( めった )に困っちゃ仕方がない」 「すると僕なんぞも、今に、とおふい、 油揚 ( あぶらげ )、がんもどきと 怒鳴 ( どな )って、あるかなくっちゃならないかね」 「華族でもない癖に」 「まだ華族にはならないが、金はだいぶあるよ」 「あってもそのくらいじゃ駄目だ」 「このくらいじゃ 豆腐 ( とうふ )いと云う資格はないのかな。 大 ( おおい )に僕の財産を 見縊 ( みくび )ったね」 「時に君、 背中 ( せなか )を流してくれないか」 「僕のも流すのかい」 「流してもいいさ。 隣りの部屋の男も流しくらをやってたぜ、君」 「隣りの男の背中は似たり寄ったりだから公平だが、君の背中と、僕の背中とはだいぶ面積が違うから損だ」 「そんな面倒な事を云うなら一人で洗うばかりだ」と圭さんは、両足を 湯壺 ( ゆつぼ )の中にうんと踏ん張って、ぎゅうと 手拭 ( てぬぐい )をしごいたと思ったら、 両端 ( りょうはじ )を握ったまま、ぴしゃりと、音を立てて 斜 ( はす )に 膏切 ( あぶらぎ )った背中へあてがった。 やがて二の腕へ 力瘤 ( ちからこぶ )が急に出来上がると、水を含んだ手拭は、岡のように肉づいた背中をぎちぎち 磨 ( こす )り始める。 手拭の運動につれて、圭さんの太い 眉 ( まゆ )がくしゃりと寄って来る。 鼻の穴が三角形に 膨脹 ( ぼうちょう )して、小鼻が 勃 ( ぼっ )として左右に展開する。 口は腹を切る時のように堅く 喰締 ( くいしば )ったまま、両耳の方まで 割 ( さ )けてくる。 「まるで 仁王 ( におう )のようだね。 仁王の 行水 ( ぎょうずい )だ。 そんな猛烈な顔がよくできるね。 こりゃ不思議だ。 そう眼をぐりぐりさせなくっても、背中は洗えそうなものだがね」 圭さんは何にも云わずに一生懸命にぐいぐい 擦 ( こす )る。 擦っては時々、手拭を 温泉 ( ゆ )に 漬 ( つ )けて、充分水を含ませる。 含ませるたんびに、碌さんの顔へ、 汗 ( あせ )と 膏 ( あぶら )と 垢 ( あか )と 温泉 ( ゆ )の 交 ( まじ )ったものが十五六滴ずつ飛んで来る。 「こいつは降参だ。 ちょっと失敬して、流しの方へ出るよ」と碌さんは 湯槽 ( ゆぶね )を飛び出した。 飛び出しはしたものの、感心の 極 ( きょく )、流しへ突っ立ったまま、 茫然 ( ぼうぜん )として、仁王の行水を眺めている。 「あの隣りの客は元来何者だろう」と圭さんが 槽 ( ふね )のなかから質問する。 「隣りの客どころじゃない。 その顔は不思議だよ」 「もう済んだ。 ああ好い心持だ」と圭さん、手拭の 一端 ( いったん )を放すや否や、ざぶんと 温泉 ( ゆ )の中へ、石のように大きな背中を落す。 満槽 ( まんそう )の湯は一度に 面喰 ( めんくら )って、槽の底から 大恐惶 ( だいきょうこう )を持ち上げる。 ざあっざあっと音がして、流しへ 溢 ( あふ )れだす。 「ああいい心持ちだ」と圭さんは波のなかで云った。 「なるほどそう遠慮なしに 振舞 ( ふるま )ったら、好い心持に相違ない。 君は豪傑だよ」 「あの隣りの客は 竹刀 ( しない )と 小手 ( こて )の事ばかり云ってるじゃないか。 全体何者だい」と圭さんは 呑気 ( のんき )なものだ。 「君が華族と金持ちの事を気にするようなものだろう」 「僕のは深い原因があるのだが、あの客のは何だか 訳 ( わけ )が分らない」 「なに自分じゃあ、あれで分ってるんだよ。 「ハハハハそこでそら 竹刀 ( しない )を落したんだあねか。 ハハハハ。 どうも気楽なものだ」と圭さんも真似して見る。 「なにあれでも、実は 慷慨家 ( こうがいか )かも知れない。 そらよく 草双紙 ( くさぞうし )にあるじゃないか。 何とかの何々、実は海賊の張本 毛剃九右衛門 ( けぞりくえもん )て」 「海賊らしくもないぜ。 さっき 温泉 ( ゆ )に 這入 ( はい )りに来る時、 覗 ( のぞ )いて見たら、二人共 木枕 ( きまくら )をして、ぐうぐう寝ていたよ」 「木枕をして寝られるくらいの頭だから、そら、そこで、その、小手を取られるんだあね」と碌さんは、まだ真似をする。 「竹刀も取られるんだあねか。 ハハハハ。 何でも赤い表紙の本を胸の上へ 載 ( の )せたまんま寝ていたよ」 「その赤い本が、何でもその、竹刀を落したり、小手を取られるんだあね」と碌さんは、どこまでも真似をする。 「何だろう、あの本は」 「 伊賀 ( いが )の 水月 ( すいげつ )さ」と碌さんは、 躊躇 ( ちゅうちょ )なく答えた。 「伊賀の水月? 伊賀の水月た何だい」 「伊賀の水月を知らないのかい」 「知らない。 知らなければ恥かな」と圭さんはちょっと首を 捻 ( ひね )った。 「恥じゃないが話せないよ」 「話せない? なぜ」 「なぜって、君、荒木又右衛門を知らないか」 「うん、又右衛門か」 「知ってるのかい」と碌さんまた湯の中へ 這入 ( はい )る。 圭さんはまた 槽 ( ふね )のなかへ 突立 ( つった )った。 「もう仁王の行水は御免だよ」 「もう大丈夫、背中はあらわない。 あまり這入ってると 逆上 ( のぼせ )るから、時々こう立つのさ」 「ただ立つばかりなら、安心だ。 豊臣秀吉の家来じゃないか」と圭さん、飛んでもない事を云う。 「ハハハハこいつはあきれた。 華族や金持ちを豆腐屋にするだなんて、えらい事を云うが、どうも 何 ( なんに )も知らないね」 「じゃ待った。 少し考えるから。 又右衛門だね。 又右衛門、荒木又右衛門だね。 待ちたまえよ、荒木の又右衛門と。 うん分った」 「何だい」 「 相撲取 ( すもうとり )だ」 「ハハハハ荒木、ハハハハ荒木、又ハハハハ又右衛門が、相撲取り。 いよいよ、あきれてしまった。 実に無識だね。 ハハハハ」と碌さんは 大恐悦 ( だいきょうえつ )である。 「そんなにおかしいか」 「おかしいって、誰に聞かしたって笑うぜ」 「そんなに有名な男か」 「そうさ、荒木又右衛門じゃないか」 「だから僕もどこかで聞いたように思うのさ」 「そら、落ち行く先きは九州 相良 ( さがら )って云うじゃないか」 「云うかも知れんが、その句は聞いた事がないようだ」 「困った男だな」 「ちっとも困りゃしない。 荒木又右衛門ぐらい知らなくったって、 毫 ( ごう )も僕の人格には関係はしまい。 それよりも五里の 山路 ( やまみち )が苦になって、やたらに不平を並べるような人が困った男なんだ」 「腕力や脚力を持ち出されちゃ駄目だね。 とうてい 叶 ( かな )いっこない。 そこへ行くと、どうしても豆腐屋出身の天下だ。 僕も豆腐屋へ年期奉公に住み込んで置けばよかった」 「君は第一平生から 惰弱 ( だじゃく )でいけない。 ちっとも意志がない」 「これでよっぽど有るつもりなんだがな。 ただ 饂飩 ( うどん )に 逢 ( あ )った時ばかりは全く意志が薄弱だと、自分ながら思うね」 「ハハハハつまらん事を云っていらあ」 「しかし豆腐屋にしちゃ、君のからだは奇麗過ぎるね」 「こんなに黒くってもかい」 「黒い白いは別として、豆腐屋は大概 箚青 ( ほりもの )があるじゃないか」 「なぜ」 「なぜか知らないが、箚青があるもんだよ。 君、なぜほらなかった」 「馬鹿あ云ってらあ。 僕のような高尚な男が、そんな 愚 ( ぐ )な真似をするものか。 華族や金持がほれば似合うかも知れないが、僕にはそんなものは向かない。 荒木又右衛門だって、ほっちゃいまい」 「荒木又右衛門か。 そいつは困ったな。 まだそこまでは調べが届いていないからね」 「そりゃどうでもいいが、ともかくもあしたは六時に起きるんだよ」 「そうして、ともかくも饂飩を食うんだろう。 僕の意志の薄弱なのにも困るかも知れないが、君の意志の強固なのにも 辟易 ( へきえき )するよ。 うちを出てから、僕の云う事は一つも通らないんだからな。 全く 唯々諾々 ( いいだくだく )として命令に服しているんだ。 豆腐屋主義はきびしいもんだね」 「なにこのくらい強硬にしないと増長していけない」 「僕がかい」 「なあに世の中の奴らがさ。 金持ちとか、華族とか、なんとかかとか、生意気に威張る奴らがさ」 「しかしそりゃ見当違だぜ。 そんなものの身代りに僕が豆腐屋主義に屈従するなたまらない。 どうも驚ろいた。 以来君と旅行するのは御免だ」 「なあに構わんさ」 「君は構わなくってもこっちは大いに構うんだよ。 その上旅費は奇麗に 折半 ( せっぱん )されるんだから、 愚 ( ぐ )の 極 ( きょく )だ」 「しかし僕の御蔭で天地の壮観たる 阿蘇 ( あそ )の噴火口を見る事ができるだろう」 「 可愛想 ( かわいそう )に。 一人 ( ひとり )だって阿蘇ぐらい登れるよ」 「しかし華族や金持なんて存外 意気地 ( いくじ )がないもんで……」 「また身代りか、どうだい身代りはやめにして、本当の華族や金持ちの方へ持って行ったら」 「いずれ、その内持ってくつもりだがね。 もっとも僕の知ったものにね。 虎列拉 ( コレラ )になるなると思っていたら、とうとう虎列拉になったものがあるがね。 君のもそう、うまく行くと好いけれども」 「時にあの 髯 ( ひげ )を抜いてた爺さんが 手拭 ( てぬぐい )をさげてやって来たぜ」 「ちょうど好いから君一つ聞いて見たまえ」 「僕はもう 湯気 ( ゆけ )に上がりそうだから、出るよ」 「まあ、いいさ、出ないでも。 君がいやなら僕が聞いて見るから、もう少し 這入 ( はい )っていたまえ」 「おや、あとから 竹刀 ( しない )と 小手 ( こて )がいっしょに来たぜ」 「どれ。 なるほど、 揃 ( そろ )って来た。 あとから、まだ来るぜ。 やあ婆さんが来た。 婆さんも、この 湯槽 ( ゆぶね )へ這入るのかな」 「僕はともかくも出るよ」 「婆さんが這入るなら、僕もともかくも出よう」 風呂場を出ると、ひやりと吹く秋風が、袖口からすうと這入って、 素肌 ( すはだ )を 臍 ( へそ )のあたりまで吹き抜けた。 出臍 ( でべそ )の圭さんは、はっくしょうと大きな 苦沙弥 ( くしゃみ )を無遠慮にやる。 上がり口に 白芙蓉 ( はくふよう )が五六輪、夕暮の秋を淋しく咲いている。 見上げる 向 ( むこう )では 阿蘇 ( あそ )の山がごううごううと遠くながら鳴っている。 「あすこへ登るんだね」と碌さんが云う。 「鳴ってるぜ。 愉快だな」と圭さんが云う。 三 「姉さん、この人は 肥 ( ふと )ってるだろう」 「だいぶん 肥 ( こ )えていなはります」 「肥えてるって、おれは、これで豆腐屋だもの」 「ホホホ」 「豆腐屋じゃおかしいかい」 「豆腐屋の癖に西郷隆盛のような顔をしているからおかしいんだよ。 時にこう、 精進料理 ( しょうじんりょうり )じゃ、あした、 御山 ( おやま )へ登れそうもないな」 「また 御馳走 ( ごちそう )を食いたがる」 「食いたがるって、これじゃ営養不良になるばかりだ」 「なにこれほど御馳走があればたくさんだ。 昨日 ( きのう )は 饂飩 ( うどん )ばかり食わせられる。 きょうは湯葉に椎茸ばかりか。 ああああ」 「君この芋を食って見たまえ。 じゃ玉子があるだろう」 「玉子ならござりまっす」 「その玉子を半熟にして来てくれ」 「何に致します」 「半熟にするんだ」 「煮て参じますか」 「まあ煮るんだが、半分煮るんだ。 半熟を知らないか」 「いいえ」 「知らない?」 「知りまっせん」 「どうも 辟易 ( へきえき )だな」 「何でござりまっす」 「何でもいいから、玉子を持って 御出 ( おいで )。 それから、おい、ちょっと待った。 君ビールを飲むか」 「飲んでもいい」と圭さんは 泰然 ( たいぜん )たる返事をした。 「飲んでもいいか、それじゃ飲まなくってもいいんだ。 ともかくも少し飲もう」 「ともかくもか、ハハハ。 君ほど、ともかくもの好きな男はないね。 それで、あしたになると、ともかくも饂飩を食おうと云うんだろう。 玉子とビールだ。 何だか日本の領地でないような気がする。 情 ( なさけ )ない所だ」 「なければ、飲まなくっても、いいさ」と圭さんはまた泰然たる 挨拶 ( あいさつ )をする。 「ビールはござりませんばってん、 恵比寿 ( えびす )ならござります」 「ハハハハいよいよ妙になって来た。 おい君ビールでない恵比寿があるって云うんだが、その恵比寿でも飲んで見るかね」 「うん、飲んでもいい。 「ねえ」と下女は 肥後訛 ( ひごなま )りの返事をする。 「じゃ、ともかくもその 栓 ( せん )を抜いてね。 罎ごと、ここへ持っておいで」 「ねえ」 下女は 心得貌 ( こころえがお )に起って行く。 幅の狭い 唐縮緬 ( とうちりめん )をちょきり結びに 御臀 ( おしり )の上へ乗せて、 絣 ( かすり )の 筒袖 ( つつそで )をつんつるてんに着ている。 髪だけは一種異様の 束髪 ( そくはつ )に、だいぶ碌さんと圭さんの 胆 ( たん )を寒からしめたようだ。 「あの下女は異彩を放ってるね」と碌さんが云うと、圭さんは平気な顔をして、 「そうさ」と何の苦もなく答えたが、 「単純でいい女だ」とあとへ、持って来て、木に竹を 接 ( つ )いだようにつけた。 「剛健な趣味がありゃしないか」 「うん。 実際 田舎者 ( いなかもの )の精神に、文明の教育を 施 ( ほどこ )すと、立派な人物が出来るんだがな。 惜しい事だ」 「そんなに惜しけりゃ、あれを東京へ連れて行って、仕込んで見るがいい」 「うん、それも 好 ( よ )かろう。 しかしそれより前に文明の皮を 剥 ( む )かなくっちゃ、いけない」 「皮が厚いからなかなか骨が折れるだろう」と碌さんは 水瓜 ( すいか )のような事を云う。 「折れても何でも剥くのさ。 奇麗な顔をして、 下卑 ( げび )た事ばかりやってる。 それも金がない奴だと、自分だけで済むのだが、身分がいいと困る。 下卑た 根性 ( こんじょう )を社会全体に 蔓延 ( まんえん )させるからね。 大変な害毒だ。 しかも身分がよかったり、金があったりするものに、よくこう云う 性根 ( しょうね )の悪い奴があるものだ」 「しかも、そんなのに限って皮がいよいよ厚いんだろう」 「体裁だけはすこぶる 美事 ( みごと )なものさ。 しかし内心はあの下女よりよっぽどすれているんだから、いやになってしまう」 「そうかね。 じゃ、僕もこれから、ちと 剛健党 ( ごうけんとう )の御仲間入りをやろうかな」 「無論の事さ。 だからまず 第一着 ( だいいっちゃく )にあした六時に起きて……」 「御昼に 饂飩 ( うどん )を食ってか」 「 阿蘇 ( あそ )の噴火口を 観 ( み )て……」 「 癇癪 ( かんしゃく )を起して飛び込まないように 要心 ( ようじん )をしてか」 「もっとも崇高なる天地間の活力現象に対して、雄大の 気象 ( きしょう )を養って、 齷齪 ( あくそく )たる 塵事 ( じんじ )を超越するんだ」 「あんまり超越し過ぎるとあとで世の中が、いやになって、かえって困るぜ。 だからそこのところは 好加減 ( いいかげん )に超越して置く事にしようじゃないか。 僕の足じゃとうていそうえらく超越出来そうもないよ」 「弱い男だ」 筒袖 ( つつそで )の下女が、盆の上へ、 麦酒 ( ビール )を一本、 洋盃 ( コップ )を二つ、玉子を四個、並べつくして持ってくる。 「そら恵比寿が来た。 この恵比寿がビールでないんだから面白い。 さあ 一杯 ( いっぱい )飲むかい」と碌さんが相手に洋盃を渡す。 「うん、ついでにその玉子を二つ貰おうか」と圭さんが云う。 「だって玉子は僕が 誂 ( あつ )らえたんだぜ」 「しかし四つとも食う気かい」 「あしたの 饂飩 ( うどん )が気になるから、このうち二個は携帯して 行 ( い )こうと思うんだ」 「うん、そんなら、よそう」と圭さんはすぐ断念する。 「よすとなると気の毒だから、まあ上げよう。 君どうだ、熊本製の恵比寿は」 「うん。 やっぱり東京製と同じようだ。 「ねえ」 「生だと云うのに」 「ねえ」 「何だか要領を得ないな。 君、半熟を命じたんじゃないか。 君のも生か」と圭さんは下女を捨てて、碌さんに向ってくる。 「半熟を命じて不熟を得たりか。 僕のを一つ割って見よう。 「全熟だ。 こっちのはどうだ。 「ねえ」 「そうなのか」 「ねえ」 「なんだか言葉の通じない国へ来たようだな。 こりゃ、よく出来てらあ。 ハハハハ、君、半熟のいわれが分ったか」と碌さん 横手 ( よこで )を打つ。 「ハハハハ単純なものだ」 「まるで 落 ( おと )し 噺 ( ばな )し見たようだ」 「間違いましたか。 そちらのも煮て参じますか」 「なにこれでいいよ。 「ここが阿蘇でござりまっす」 「ここが阿蘇なら、あした六時に起きるがものはない。 もう 二三日 ( にさんち ) 逗留 ( とうりゅう )して、すぐ熊本へ引き返そうじゃないか」と碌さんがすぐ云う。 「どうぞ、いつまでも御逗留なさいまっせ」 「せっかく、姉さんも、ああ云って勧めるものだから、どうだろう、いっそ、そうしたら」と碌さんが圭さんの方を向く。 圭さんは相手にしない。 「ここも阿蘇だって、阿蘇郡なんだろう」とやはり下女を追窮している。 「ねえ」 「じゃ阿蘇の御宮まではどのくらいあるかい」 「御宮までは三里でござりまっす」 「山の上までは」 「御宮から二里でござりますたい」 「山の上はえらいだろうね」と碌さんが突然飛び出してくる。 「ねえ」 「 御前 ( おまえ )登った事があるかい」 「いいえ」 「じゃ知らないんだね」 「いいえ、知りまっせん」 「知らなけりゃ、しようがない。 せっかく話を聞こうと思ったのに」 「御山へ御登りなさいますか」 「うん、早く登りたくって、仕方がないんだ」と圭さんが云うと、 「僕は登りたくなくって、仕方がないんだ」と碌さんが 打 ( ぶ )ち 壊 ( こ )わした。 「ホホホそれじゃ、あなただけ、ここへ御逗留なさいまっせ」 「うん、ここで 寝転 ( ねころ )んで、あのごうごう云う音を聞いている方が 楽 ( らく )なようだ。 ごうごうと云やあ、さっきより、だいぶ 烈 ( はげ )しくなったようだぜ、君」 「そうさ、だいぶ、強くなった。 夜のせいだろう」 「御山が少し荒れておりますたい」 「荒れると烈しく鳴るのかね」 「ねえ。 そうして よながたくさんに降って参りますたい」 「 よなた何だい」 「灰でござりまっす」 下女は障子をあけて、 椽側 ( えんがわ )へ 人指 ( ひとさ )しゆびを 擦 ( す )りつけながら、 「御覧なさりまっせ」と黒い指先を出す。 「なるほど、 始終 ( しじゅう )降ってるんだ。 きのうは、こんなじゃなかったね」と圭さんが感心する。 「ねえ。 少し御山が荒れておりますたい」 「おい君、いくら荒れても登る気かね。 荒れ模様なら少々延ばそうじゃないか」 「荒れればなお愉快だ。 滅多 ( めった )に荒れたところなんぞが見られるものじゃない。 荒れる時と、荒れない時は火の出具合が大変違うんだそうだ。 ねえ、姉さん」 「ねえ、今夜は大変赤く見えます。 ちょと出て御覧なさいまっせ」 どれと、圭さんはすぐ椽側へ飛び出す。 「いやあ、こいつは 熾 ( さかん )だ。 おい君早く出て見たまえ。 大変だよ」 「大変だ? 大変じゃ出て見るかな。 夜だから、ああ見えるんだ。 実際昼間から、あのくらいやってるんだよ。 ねえ、姉さん」 「ねえ」 「ねえかも知れないが危険だぜ。 ここにこうしていても何だか顔が熱いようだ」と碌さんは、自分の 頬 ( ほっ )ぺたを 撫 ( な )で廻す。 「 大袈裟 ( おおげさ )な事ばかり云う男だ」 「だって君の顔だって、赤く見えるぜ。 そらそこの垣の外に広い稲田があるだろう。 あの青い葉が一面に、こう照らされているじゃないか」 「 嘘 ( うそ )ばかり、あれは星のひかりで見えるのだ」 「星のひかりと火のひかりとは 趣 ( おもむき )が違うさ」 「どうも、君もよほど無学だね。 君、あの火は五六里先きにあるのだぜ」 「何里先きだって、向うの方の空が一面に真赤になってるじゃないか」と碌さんは 向 ( むこう )をゆびさして大きな輪を指の先で 描 ( えが )いて見せる。 「よるだもの」 「夜だって……」 「君は無学だよ。 荒木又右衛門は知らなくっても好いが、このくらいな事が分らなくっちゃ恥だぜ」と圭さんは、横から相手の顔を見た。 「人格にかかわるかね。 人格にかかわるのは我慢するが、命にかかわっちゃ降参だ」 「まだあんな事を云っている。 ねえ姉さん。 あのくらい火が出たって、御山へは登れるんだろう」 「ねえい」 「大丈夫かい」と碌さんは下女の顔を 覗 ( のぞ )き込む。 「ねえい。 女でも登りますたい」 「女でも登っちゃ、男は 是非 ( ぜひ )登る 訳 ( わけ )かな。 飛んだ事になったもんだ」 「ともかくも、あしたは六時に起きて……」 「もう分ったよ」 言い 棄 ( す )てて、部屋のなかに、ごろりと寝転んだ、碌さんの去ったあとに、圭さんは、 黙然 ( もくねん )と、 眉 ( まゆ )を 軒 ( あ )げて、 奈落 ( ならく )から半空に向って、 真直 ( まっすぐ )に立つ火の柱を見詰めていた。 四 「おいこれから曲がっていよいよ登るんだろう」と 圭 ( けい )さんが振り返る。 「ここを曲がるかね」 「何でも突き当りに寺の石段が見えるから、門を 這入 ( はい )らずに左へ廻れと教えたぜ」 「 饂飩屋 ( うどんや )の 爺 ( じい )さんがか」と 碌 ( ろく )さんはしきりに胸を 撫 ( な )で廻す。 「そうさ」 「あの爺さんが、何を云うか分ったもんじゃない」 「なぜ」 「なぜって、世の中に商売もあろうに、饂飩屋になるなんて、第一それからが 不了簡 ( ふりょうけん )だ」 「饂飩屋だって正業だ。 金を積んで、貧乏人を圧迫するのを道楽にするような人間より 遥 ( はる )かに 尊 ( たっ )といさ」 「尊といかも知れないが、どうも饂飩屋は 性 ( しょう )に合わない。 だから云わない事じゃない。 天祐 ( てんゆう )があるんだから」 「どこに」 「どこにでもあるさ。 意思のある所には天祐がごろごろしているものだ」 「どうも君は自信家だ。 剛健党 ( ごうけんとう )になるかと思うと、 天祐派 ( てんゆうは )になる。 この次ぎには 天誅組 ( てんちゅうぐみ )にでもなって 筑波山 ( つくばさん )へ立て 籠 ( こも )るつもりだろう」 「なに豆腐屋時代から天誅組さ。 桀紂 ( けっちゅう )と云えば古来から悪人として 通 ( とお )り 者 ( もの )だが、二十世紀はこの桀紂で充満しているんだぜ、しかも文明の皮を厚く 被 ( かぶ )ってるから 小憎 ( こにく )らしい」 「皮ばかりで中味のない方がいいくらいなものかな。 やっぱり、金があり過ぎて、退屈だと、そんな 真似 ( まね )がしたくなるんだね。 馬鹿に金を持たせると大概桀紂になりたがるんだろう。 僕のような 有徳 ( うとく )の君子は貧乏だし、彼らのような愚劣な 輩 ( はい )は、人を苦しめるために金銭を使っているし、困った世の中だなあ。 いっそ、どうだい、そう云う、ももんがあを十 把一 ( ぱひ )とからげにして、阿蘇の噴火口から 真逆様 ( まっさかさま )に地獄の下へ落しちまったら」 「今に落としてやる」と圭さんは薄黒く 渦巻 ( うずま )く煙りを仰いで、 草鞋足 ( わらじあし )をうんと 踏張 ( ふんば )った。 「大変な 権幕 ( けんまく )だね。 君、大丈夫かい。 十把一とからげを 放 ( ほう )り込まないうちに、君が飛び込んじゃいけないぜ」 「あの音は壮烈だな」 「足の下が、もう揺れているようだ。 たしかに足の下がうなってる」 「その割に煙りがこないな」 「風のせいだ。 北風だから、右へ吹きつけるんだ」 「 樹 ( き )が多いから、方角が分らない。 もう少し登ったら見当がつくだろう」 しばらくは 雑木林 ( ぞうきばやし )の間を行く。 道幅は三尺に足らぬ。 いくら仲が 善 ( よ )くても並んで 歩行 ( ある )く訳には行かぬ。 圭さんは大きな足を 悠々 ( ゆうゆう )と振って先へ行く。 碌さんは小さな 体躯 ( からだ )をすぼめて、 小股 ( こまた )に 後 ( あと )から 尾 ( つ )いて行く。 尾いて行きながら、圭さんの足跡の大きいのに感心している。 感心しながら歩行いて行くと、だんだんおくれてしまう。 路は左右に曲折して 爪先上 ( つまさきあが )りだから、三十分と立たぬうちに、圭さんの影を見失った。 樹と樹の間をすかして見ても何にも見えぬ。 山を下りる人は一人もない。 上 ( あが )るものにも全く出合わない。 ただ所々に馬の足跡がある。 たまに草鞋の切れが 茨 ( いばら )にかかっている。 そのほかに人の 気色 ( けしき )はさらにない、 饂飩腹 ( うどんばら )の碌さんは少々心細くなった。 きのうの澄み切った空に引き 易 ( か )えて、今朝宿を立つ時からの 霧模様 ( きりもよう )には少し 掛念 ( けねん )もあったが、晴れさえすればと、好い加減な事を頼みにして、とうとう 阿蘇 ( あそ )の 社 ( やしろ )までは 漕 ( こ )ぎつけた。 白木 ( しらき )の宮に 禰宜 ( ねぎ )の鳴らす 柏手 ( かしわで )が、 森閑 ( しんかん )と立つ杉の 梢 ( こずえ )に響いた時、見上げる空から、ぽつりと何やら 額 ( ひたい )に落ちた。 饂飩 ( うどん )を煮る湯気が障子の破れから、吹いて、白く右へ 靡 ( なび )いた頃から、 午過 ( ひるす )ぎは雨かなとも思われた。 雑木林を 小半里 ( こはんみち )ほど来たら、怪しい空がとうとう持ち切れなくなったと見えて、 梢 ( こずえ )にしたたる雨の音が、さあと北の方へ走る。 あとから、すぐ新しい音が耳を 掠 ( かす )めて、 翻 ( ひるが )える 木 ( こ )の 葉 ( は )と共にまた北の方へ走る。 碌さんは首を縮めて、えっと舌打ちをした。 一時間ほどで林は尽きる。 尽きると云わんよりは、一度に消えると云う方が適当であろう。 ふり返る、 後 ( うしろ )は知らず、 貫 ( つらぬ )いて来た一筋道のほかは、東も西も 茫々 ( ぼうぼう )たる青草が波を打って幾段となく 連 ( つら )なる 後 ( あと )から、むくむくと黒い煙りが持ち上がってくる。 噴火口こそ見えないが、煙りの出るのは、つい鼻の先である。 林が尽きて、青い原を半丁と行かぬ所に、 大入道 ( おおにゅうどう )の圭さんが空を仰いで立っている。 蝙蝠傘 ( こうもり )は畳んだまま、帽子さえ、 被 ( かぶ )らずに 毬栗頭 ( いがぐりあたま )をぬっくと草から上へ突き出して地形を見廻している様子だ。 「おうい。 少し待ってくれ」 「おうい。 荒れて来たぞ。 荒れて来たぞうう。 しっかりしろう」 「しっかりするから、少し待ってくれえ」と碌さんは一生懸命に草のなかを 這 ( は )い上がる。 ようやく追いつく碌さんを待ち受けて、 「おい何をぐずぐずしているんだ」と圭さんが 遣 ( や )っつける。 「だから饂飩じゃ駄目だと云ったんだ。 ああ苦しい。 真黒だ」 「そうか、君のも真黒だ」 圭さんは、 無雑作 ( むぞうさ )に 白地 ( しろじ )の 浴衣 ( ゆかた )の 片袖 ( かたそで )で、頭から顔を 撫 ( な )で廻す。 碌さんは腰から、ハンケチを出す。 「なるほど、 拭 ( ふ )くと、着物がどす黒くなる」 「僕のハンケチも、こんなだ」 「ひどいものだな」と圭さんは雨のなかに坊主頭を 曝 ( さら )しながら、空模様を見廻す。 「 よなだ。 よなが雨に 溶 ( と )けて降ってくるんだ。 そら、その 薄 ( すすき )の上を見たまえ」と碌さんが指をさす。 長い薄の葉は一面に灰を浴びて 濡 ( ぬ )れながら、 靡 ( なび )く。 「なるほど」 「困ったな、こりゃ」 「なあに大丈夫だ。 ついそこだもの。 あの煙りの出る所を 目当 ( めあて )にして行けば 訳 ( わけ )はない」 「訳はなさそうだが、これじゃ 路 ( みち )が分らないぜ」 「だから、さっきから、待っていたのさ。 ここを左りへ行くか、右へ行くかと云う、ちょうど 股 ( また )の所なんだ」 「なるほど、両方共路になってるね。 僕は右へ行くつもりだ」 「どうして」 「どうしてって、右の方には馬の足跡があるが、左の方には少しもない」 「そうかい」と碌さんは、 身躯 ( からだ )を前に曲げながら、 蔽 ( おお )いかかる草を押し分けて、五六歩、左の方へ進んだが、すぐに取って返して、 「駄目のようだ。 足跡は一つも見当らない」と云った。 「ないだろう」 「そっちにはあるかい」 「うん。 たった二つある」 「二つぎりかい」 「そうさ。 たった二つだ。 そら、こことここに」と圭さんは 繻子張 ( しゅすばり )の 蝙蝠傘 ( こうもり )の先で、かぶさる 薄 ( すすき )の下に、 幽 ( かす )かに残る馬の足跡を見せる。 「これだけかい心細いな」 「なに大丈夫だ」 「 天祐 ( てんゆう )じゃないか、君の天祐はあてにならない事 夥 ( おびただ )しいよ」 「なにこれが天祐さ」と圭さんが云い 了 ( おわ )らぬうちに、雨を 捲 ( ま )いて 颯 ( さっ )とおろす一陣の風が、碌さんの 麦藁帽 ( むぎわらぼう )を遠慮なく、吹き込めて、五六間先まで飛ばして行く。 眼に余る青草は、風を受けて一度に向うへ 靡 ( なび )いて、見るうちに色が変ると思うと、また靡き返してもとの 態 ( さま )に戻る。 「痛快だ。 風の飛んで行く足跡が草の上に見える。 あれを見たまえ」と圭さんが 幾重 ( いくえ )となく起伏する青い草の海を 指 ( さ )す。 「痛快でもないぜ。 帽子が飛んじまった」 「帽子が飛んだ? いいじゃないか帽子が飛んだって。 取ってくるさ。 取って来てやろうか」 圭さんは、いきなり、自分の帽子の上へ蝙蝠傘を 重 ( おも )しに置いて、颯と、薄の中に飛び込んだ。 「おいこの見当か」 「もう少し左りだ」 圭さんの身躯は次第に青いものの中に、深くはまって行く。 しまいには首だけになった。 あとに残った碌さんはまた心配になる。 「おうい。 大丈夫か」 「何だあ」と向うの首から声が出る。 「大丈夫かよう」 やがて圭さんの首が見えなくなった。 「おうい」 鼻の先から出る黒煙りは 鼠色 ( ねずみいろ )の 円柱 ( まるばしら )の各部が 絶間 ( たえま )なく 蠕動 ( ぜんどう )を起しつつあるごとく、むくむくと 捲 ( ま )き上がって、 半空 ( はんくう )から大気の 裡 ( うち )に 溶 ( と )け込んで碌さんの頭の上へ容赦なく雨と共に落ちてくる。 碌さんは 悄然 ( しょうぜん )として、首の消えた方角を見つめている。 しばらくすると、まるで見当の違った半丁ほど先に、圭さんの首が 忽然 ( こつぜん )と現われた。 「帽子はないぞう」 「帽子はいらないよう。 早く帰ってこうい」 圭さんは坊主頭を振り立てながら、 薄 ( すすき )の中を泳いでくる。 「おい、どこへ飛ばしたんだい」 「どこだか、相談が 纏 ( まとま )らないうちに飛ばしちまったんだ。 帽子はいいが、 歩行 ( ある )くのは 厭 ( いや )になったよ」 「もういやになったのか。 まだあるかないじゃないか」 「あの煙と、この雨を見ると、何だか 物凄 ( ものすご )くって、あるく元気がなくなるね」 「今から 駄々 ( だだ )を 捏 ( こ )ねちゃ仕方がない。 あのむくむく煙の出てくるところは」 「そのむくむくが気味が悪るいんだ」 「 冗談 ( じょうだん )云っちゃ、いけない。 あの煙の 傍 ( そば )へ行くんだよ。 そうして、あの中を 覗 ( のぞ )き込むんだよ」 「考えると全く余計な事だね。 そうして覗き込んだ上に飛び込めば世話はない」 「ともかくもあるこう」 「ハハハハともかくもか。 君がともかくもと云い出すと、つい釣り込まれるよ。 さっきもともかくもで、とうとう 饂飩 ( うどん )を食っちまった。 これで 赤痢 ( せきり )にでも 罹 ( か )かれば全くともかくもの 御蔭 ( おかげ )だ」 「いいさ、僕が責任を持つから」 「僕の病気の責任を持ったって、しようがないじゃないか。 僕の代理に病気になれもしまい」 「まあ、いいさ。 僕が看病をして、僕が伝染して、本人の君は助けるようにしてやるよ」 「そうか、それじゃ安心だ。 まあ、少々あるくかな」 「そら、天気もだいぶよくなって来たよ。 やっぱり 天祐 ( てんゆう )があるんだよ」 「ありがたい仕合せだ。 あるく事はあるくが、今夜は 御馳走 ( ごちそう )を食わせなくっちゃ、いやだぜ」 「また御馳走か。 あるきさえすればきっと食わせるよ」 「それから……」 「まだ何か注文があるのかい」 「うん」 「何だい」 「君の経歴を聞かせるか」 「僕の経歴って、君が知ってる通りさ」 「僕が知ってる前のさ。 君が豆腐屋の小僧であった時分から……」 「小僧じゃないぜ、これでも豆腐屋の 伜 ( せがれ )なんだ」 「その伜の時、 寒磬寺 ( かんけいじ )の 鉦 ( かね )の音を聞いて、急に金持がにくらしくなった、 因縁話 ( いんねんばな )しをさ」 「ハハハハそんなに聞きたければ話すよ。 その代り剛健党にならなくちゃいけないぜ。 君なんざあ、金持の悪党を相手にした事がないから、そんなに 呑気 ( のんき )なんだ。 君はディッキンスの 両都物語 ( りょうとものがた )りと云う本を読んだ事があるか」 「ないよ。 伊賀の水月は読んだが、ディッキンスは読まない」 「それだからなお貧民に同情が薄いんだ。 悲惨なものだよ」 「へえ、どんなものだい」 「そりゃ君、 仏国 ( ふっこく )の革命の起る前に、貴族が暴威を 振 ( ふる )って細民を苦しめた事がかいてあるんだが。 あんなに金持ちや貴族が乱暴をすりゃ、ああなるのは自然の 理窟 ( りくつ )だからね。 ほら、あの 轟々 ( ごうごう )鳴って吹き出すのと同じ事さ」と圭さんは立ち 留 ( ど )まって、黒い煙の方を見る。 濛々 ( もうもう )と天地を 鎖 ( とざ )す 秋雨 ( しゅうう )を突き抜いて、百里の底から沸き 騰 ( のぼ )る濃いものが 渦 ( うず )を 捲 ( ま )き、渦を捲いて、幾百 噸 ( トン )の量とも知れず立ち上がる。 その幾百噸の煙りの一分子がことごとく震動して爆発するかと思わるるほどの音が、遠い遠い奥の方から、濃いものと共に頭の上へ 躍 ( おど )り上がって来る。 雨と風のなかに、毛虫のような眉を 攅 ( あつ )めて、余念もなく 眺 ( なが )めていた、圭さんが、非常な落ちついた調子で、 「雄大だろう、君」と云った。 「全く雄大だ」と碌さんも 真面目 ( まじめ )で答えた。 「恐ろしいくらいだ」しばらく時をきって、碌さんが付け加えた言葉はこれである。 「僕の精神はあれだよ」と圭さんが云う。 「革命か」 「うん。 文明の革命さ」 「文明の革命とは」 「血を流さないのさ」 「刀を使わなければ、何を使うのだい」 圭さんは、何にも云わずに、 平手 ( ひらて )で、自分の坊主頭をぴしゃぴしゃと二 返 ( へん ) 叩 ( たた )いた。 「頭か」 「うん。 相手も頭でくるから、こっちも頭で行くんだ」 「相手は誰だい」 「金力や威力で、たよりのない 同胞 ( どうぼう )を苦しめる奴らさ」 「うん」 「社会の悪徳を公然商売にしている奴らさ」 「うん」 「商売なら、衣食のためと云う言い訳も立つ」 「うん」 「社会の悪徳を公然道楽にしている奴らは、どうしても 叩 ( たた )きつけなければならん」 「うん」 「君もやれ」 「うん、やる」 圭さんは、のっそりと 踵 ( くびす )をめぐらした。 碌さんは 黙然 ( もくねん )として 尾 ( つ )いて行く。 空にあるものは、煙りと、雨と、風と雲である。 地にあるものは青い 薄 ( すすき )と、 女郎花 ( おみなえし )と、所々にわびしく 交 ( まじ )る 桔梗 ( ききょう )のみである。 二人は 煢々 ( けいけい )として 無人 ( むにん )の 境 ( きょう )を行く。 薄の高さは、腰を没するほどに延びて、左右から、幅、尺足らずの路を 蔽 ( おお )うている。 身を横にしても、草に触れずに進む 訳 ( わけ )には行かぬ。 触れれば雨に 濡 ( ぬ )れた灰がつく。 圭さんも碌さんも、白地の 浴衣 ( ゆかた )に、白の 股引 ( ももひき )に、 足袋 ( たび )と 脚絆 ( きゃはん )だけを 紺 ( こん )にして、濡れた薄をがさつかせて行く。 腰から下はどぶ 鼠 ( ねずみ )のように染まった。 腰から上といえども、降る雨に誘われて着く、 よなを、一面に浴びたから、ほとんど下水へ落ち込んだと同様の始末である。 たださえ、うねり、くねっている路だから、草がなくっても、どこへどう続いているか 見極 ( みきわ )めのつくものではない。 草をかぶればなおさらである。 地に残る馬の足跡さえ、ようやく見つけたくらいだから、あとの始末は無論天に任せて、あるいていると云わねばならぬ。 最初のうちこそ、立ち登る煙りを正面に見て進んだ路は、いつの間にやら、折れ曲って、次第に横から よなを受くるようになった。 横に眺める噴火口が今度は 自然 ( じねん )に後ろの方に見えだした時、圭さんはぴたりと足を 留 ( と )めた。 「どうも路が違うようだね」 「うん」と碌さんは 恨 ( うら )めしい顔をして、同じく立ち 留 ( どま )った。 「何だか、 情 ( なさけ )ない顔をしているね。 苦しいかい」 「実際情けないんだ」 「どこか痛むかい」 「豆が一面に出来て、たまらない」 「困ったな。 よっぽど痛いかい。 僕の肩へつらまったら、どうだね。 少しは 歩行 ( ある )き 好 ( い )いかも知れない」 「うん」と碌さんは気のない返事をしたまま動かない。 「宿へついたら、僕が面白い話をするよ」 「全体いつ宿へつくんだい」 「五時には湯元へ着く予定なんだが、どうも、あの煙りは妙だよ。 右へ行っても、左りへ行っても、鼻の先にあるばかりで、遠くもならなければ、近くもならない」 「 上 ( のぼ )りたてから鼻の先にあるぜ」 「そうさな。 もう少しこの路を行って見ようじゃないか」 「うん」 「それとも、少し休むか」 「うん」 「どうも、急に元気がなくなったね」 「全く 饂飩 ( うどん )の 御蔭 ( おかげ )だよ」 「ハハハハ。 その代り宿へ着くと僕が話しの 御馳走 ( ごちそう )をするよ」 「話しも聞きたくなくなった」 「それじゃまたビールでない 恵比寿 ( えびす )でも飲むさ」 「ふふん。 この様子じゃ、とても宿へ着けそうもないぜ」 「なに、大丈夫だよ」 「だって、もう暗くなって来たぜ」 「どれ」と圭さんは懐中時計を出す。 「四時五分前だ。 暗いのは天気のせいだ。 しかしこう方角が変って来ると少し困るな。 山へ登ってから、もう二三里はあるいたね」 「豆の様子じゃ、十里くらいあるいてるよ」 「ハハハハ。 あの煙りが前に見えたんだが、もうずっと、 後 ( うし )ろになってしまった。 すると我々は熊本の方へ二三里近付いた訳かね」 「つまり山からそれだけ遠ざかった訳さ」 「そう云えばそうさ。 あれが多分、新しい噴火口なんだろう。 あのむくむく出るところを見ると、つい、そこにあるようだがな。 どうして行かれないだろう。 何でもこの山のつい裏に違いないんだが、路がないから困る」 「路があったって駄目だよ」 「どうも雲だか、煙りだか非常に濃く、頭の上へやってくる。 壮 ( さか )んなものだ。 ねえ、君」 「うん」 「どうだい、こんな 凄 ( すご )い景色はとても、こう云う時でなけりゃ見られないぜ。 うん、非常に黒いものが降って来る。 君あたまが大変だ。 僕の帽子を貸してやろう。 それから 手拭 ( てぬぐい )があるだろう。 飛ぶといけないから、上から 結 ( い )わいつけるんだ。 どうせ風に 逆 ( さか )らうぎりだ。 そうして 杖 ( つえ )につくさ。 杖が出来ると、少しは 歩行 ( ある )けるだろう」 「少しは歩行きよくなった。 雨や風は大丈夫だが、足は痛むかね」 「痛いさ。 登るときは豆が三つばかりだったが、一面になったんだもの」 「晩にね、僕が、煙草の 吸殻 ( すいがら )を 飯粒 ( めしつぶ )で練って、 膏薬 ( こうやく )を 製 ( つく )ってやろう」 「宿へつけば、どうでもなるんだが……」 「あるいてるうちが難義か」 「うん」 「困ったな。 あの上へ登ったら、 噴火孔 ( ふんかこう )が 一 ( ひ )と 眼 ( め )に見えるに 違 ( ちがい )ない。 そうしたら、路が分るよ」 「分るって、あすこへ行くまでに日が暮れてしまうよ」 「待ちたまえちょっと時計を見るから。 四時八分だ。 まだ暮れやしない。 君ここに待っていたまえ。 僕がちょっと 物見 ( ものみ )をしてくるから」 「待ってるが、帰りに路が分らなくなると、それこそ大変だぜ。 二人離れ離れになっちまうよ」 「大丈夫だ。 どうしたって死ぬ 気遣 ( きづかい )はないんだ。 どうかしたら大きな声を出して呼ぶよ」 「うん。 呼んでくれたまえ」 圭さんは雲と煙の 這 ( は )い廻るなかへ、猛然として進んで行く。 碌さんは心細くもただ一人 薄 ( すすき )のなかに立って、頼みにする友の後姿を見送っている。 しばらくするうちに圭さんの影は草のなかに消えた。 大きな山は五分に一度ぐらいずつ時をきって、普段よりは 烈 ( はげ )しく 轟 ( ごう )となる。 その折は雨も煙りも一度に揺れて、余勢が横なぐりに、 悄然 ( しょうぜん )と立つ碌さんの 体躯 ( からだ )へ突き当るように思われる。 草は眼を走らす限りを尽くしてことごとく煙りのなかに 靡 ( なび )く上を、さあさあと雨が走って行く。 草と雨の間を大きな雲が遠慮もなく這い廻わる。 碌さんは向うの草山を見つめながら、 顫 ( ふる )えている。 よなのしずくは、碌さんの下腹まで 浸 ( し )み 透 ( とお )る。 毒々しい黒煙りが長い 渦 ( うず )を 七巻 ( ななまき )まいて、むくりと空を突く 途端 ( とたん )に、碌さんの踏む足の底が、地震のように 撼 ( うご )いたと思った。 あとは、山鳴りが比較的静まった。 すると地面の下の方で、 「おおおい」と呼ぶ声がする。 碌さんは両手を、耳の後ろに 宛 ( あ )てた。 「おおおい」 たしかに呼んでいる。 不思議な事にその声が妙に足の下から 湧 ( わ )いて出る。 「おおおい」 碌さんは思わず、声をしるべに、飛び出した。 「おおおい」と 癇 ( かん )の高い声を、肺の縮むほど 絞 ( しぼ )り出すと、太い声が、草の下から、 「おおおい」と 応 ( こた )える。 圭さんに違ない。 碌さんは胸まで来る薄をむやみに押し分けて、ずんずん声のする方に進んで行く。 「おおおい」 「おおおい。 どこだ」 「おおおい。 ここだ」 「どこだああ」 「ここだああ。 むやみにくるとあぶないぞう。 落ちるぞう」 「どこへ落ちたんだああ」 「ここへ落ちたんだああ。 気をつけろう」 「気はつけるが、どこへ落ちたんだああ」 「落ちると、足の豆が痛いぞうう」 「大丈夫だああ。 どこへ落ちたんだああ」 「ここだあ、もうそれから先へ出るんじゃないよう。 おれがそっちへ行くから、そこで待っているんだよう」 圭さんの 胴間声 ( どうまごえ )は地面のなかを通って、だんだん近づいて来る。 「おい、落ちたよ」 「どこへ落ちたんだい」 「見えないか」 「見えない」 「それじゃ、もう少し前へ出た」 「おや、何だい、こりゃ」 「草のなかに、こんなものがあるから 剣呑 ( けんのん )だ」 「どうして、こんな谷があるんだろう」 「 火熔石 ( かようせき )の流れたあとだよ。 見たまえ、なかは茶色で草が一本も 生 ( は )えていない」 「なるほど、 厄介 ( やっかい )なものがあるんだね。 君、上がれるかい」 「上がれるものか。 高さが二間ばかりあるよ」 「弱ったな。 どうしよう」 「僕の頭が見えるかい」 「 毬栗 ( いがぐり )の片割れが少し見える」 「君ね」 「ええ」 「 薄 ( すすき )の上へ 腹這 ( はらばい )になって、顔だけ谷の上へ乗り出して見たまえ」 「よし、今顔を出すから待っていたまえよ」 「うん、待ってる、ここだよ」と圭さんは 蝙蝠傘 ( こうもり )で、 崖 ( がけ )の腹をとんとん 叩 ( たた )く。 碌さんは見当を 見計 ( みはから )って、ぐしゃりと濡れ薄の上へ腹をつけて恐る恐る首だけを 溝 ( みぞ )の上へ出して、 「おい」 「おい。 どうだ。 豆は痛むかね」 「豆なんざどうでもいいから、早く上がってくれたまえ」 「ハハハハ大丈夫だよ。 下の方が風があたらなくって、かえって 楽 ( らく )だぜ」 「楽だって、もう日が暮れるよ、早く上がらないと」 「君」 「ええ」 「ハンケチはないか」 「ある。 何にするんだい」 「落ちる時に 蹴爪 ( けつま )ずいて 生爪 ( なまづめ )を 剥 ( は )がした」 「生爪を? 痛むかい」 「少し痛む」 「あるけるかい」 「あるけるとも。 ハンケチがあるなら 抛 ( な )げてくれたまえ」 「裂いてやろうか」 「なに、僕が裂くから丸めて抛げてくれたまえ。 風で飛ぶと、いけないから、堅く丸めて落すんだよ」 「じくじく 濡 ( ぬ )れてるから、大丈夫だ。 飛ぶ 気遣 ( きづかい )はない。 いいか、抛げるぜ、そら」 「だいぶ暗くなって来たね。 煙は相変らず出ているかい」 「うん。 空中 ( そらじゅう )一面の煙だ」 「いやに鳴るじゃないか」 「さっきより、 烈 ( はげ )しくなったようだ。 繃帯 ( ほうたい )はもうでき上がった」 「大丈夫かい。 血が出やしないか」 「 足袋 ( たび )の上へ雨といっしょに 煮染 ( にじ )んでる」 「痛そうだね」 「なあに、痛いたって。 痛いのは生きてる証拠だ」 「僕は腹が痛くなった」 「 濡 ( ぬ )れた草の上に腹をつけているからだ。 もういいから、立ちたまえ」 「立つと君の顔が見えなくなる」 「困るな。 君どうかして上がって見ないか」 「それじゃ、君はこの穴の 縁 ( ふち )を 伝 ( つた )って 歩行 ( ある )くさ。 僕は穴の下をあるくから。 そうしたら、 上下 ( うえした )で話が出来るからいいだろう」 「 縁 ( ふち )にゃ路はありゃしない」 「草ばかりかい」 「うん。 なぜ黙ってるんだ」 「ええ」 「大丈夫かい」 「何が」 「口は 利 ( き )けるかい」 「利けるさ」 「それじゃ、なぜ黙ってるんだ」 「ちょっと考えていた」 「何を」 「穴から出る工夫をさ」 「全体何だって、そんな所へ落ちたんだい」 「早く君に安心させようと思って、草山ばかり見つめていたもんだから、つい足元が 御留守 ( おるす )になって、落ちてしまった」 「それじゃ、僕のために落ちたようなものだ。 気の毒だな、どうかして上がって貰えないかな、君」 「そうさな。 それよりか。 君、早く立ちたまえ。 そう草で腹を 冷 ( ひ )やしちゃ毒だ」 「腹なんかどうでもいいさ」 「痛むんだろう」 「痛む事は痛むさ」 「だから、ともかくも立ちたまえ。 そのうち僕がここで出る 工夫 ( くふう )を考えて置くから」 「考えたら、呼ぶんだぜ。 僕も考えるから」 「よし」 会話はしばらく 途切 ( とぎ )れる。 草の中に立って碌さんが 覚束 ( おぼつか )なく四方を見渡すと、向うの草山へぶつかった黒雲が、峰の 半腹 ( はんぷく )で、どっと 崩 ( くず )れて海のように濁ったものが頭を去る五六尺の所まで押し寄せてくる。 時計はもう五時に近い。 山のなかばはたださえ薄暗くなる時分だ。 ひゅうひゅうと絶間なく吹き 卸 ( お )ろす風は、吹くたびに、黒い夜を遠い国から持ってくる。 刻々と 逼 ( せま )る暮色のなかに、嵐は 卍 ( まんじ )に吹きすさむ。 噴火孔 ( ふんかこう )から吹き出す 幾万斛 ( いくまんごく )の煙りは卍のなかに 万遍 ( まんべん )なく 捲 ( ま )き込まれて、嵐の世界を尽くして、どす黒く 漲 ( みなぎ )り渡る。 「おい。 いるか」 「いる。 何か考えついたかい」 「いいや。 山の模様はどうだい」 「だんだん荒れるばかりだよ」 「今日は 何日 ( いくか )だっけかね」 「今日は九月二日さ」 「ことによると二百十日かも知れないね」 会話はまた切れる。 二百十日の風と雨と煙りは 満目 ( まんもく )の草を 埋 ( うず )め尽くして、一丁先は 靡 ( なび )く姿さえ、 判然 ( はき )と見えぬようになった。 「もう日が暮れるよ。 いるかい」 谷の中の人は二百十日の風に吹き 浚 ( さら )われたものか、うんとも、すんとも返事がない。 阿蘇 ( あそ )の御山は割れるばかりにごううと鳴る。 碌さんは青くなって、また草の上へ棒のように 腹這 ( はらばい )になった。 「おおおい。 おらんのか」 「おおおい。 こっちだ」 薄暗い谷底を半町ばかり登った所に、ぼんやりと白い者が動いている。 手招きをしているらしい。 「なぜ、そんな所へ行ったんだああ」 「ここから上がるんだああ」 「上がれるのかああ」 「上がれるから、早く来おおい」 碌さんは腹の痛いのも、足の豆も忘れて、 脱兎 ( だっと )の 勢 ( いきおい )で飛び出した。 「おい。 ここいらか」 「そこだ。 そこへ、ちょっと、首を出して見てくれ」 「こうか。 これなら、僕が 蝙蝠傘 ( こうもり )を上から出したら、それへ、 取 ( と )っ 捕 ( つ )らまって上がれるだろう」 「 傘 ( かさ )だけじゃ駄目だ。 君、気の毒だがね」 「うん。 ちっとも気の毒じゃない。 大いに曲ってる」 「その曲ってる方へ結びつけてくれないか」 「結びつけるとも。 すぐ結びつけてやる」 「結びつけたら、その帯の 端 ( はじ )を上からぶら下げてくれたまえ」 「ぶら下げるとも。 訳 ( わけ )はない。 大丈夫だから待っていたまえ。 僕の 身体 ( からだ )は十七貫六百目あるんだから」 「何貫目あったって大丈夫だ、安心して上がりたまえ」 「いいかい」 「いいとも」 「そら上がるぜ。 そう、ずり下がって来ては……」 「今度は大丈夫だ。 今のは 試 ( ため )して見ただけだ。 さあ上がった。 大丈夫だよ」 「君が 滑 ( す )べると、二人共落ちてしまうぜ」 「だから大丈夫だよ。 今のは傘の持ちようがわるかったんだ」 「君、 薄 ( すすき )の根へ足をかけて持ち 応 ( こた )えていたまえ。 さあ上がった」 「足を踏ん張ったかい。 どうも今度もあぶないようだな」 「おい」 「何だい」 「君は僕が力がないと思って、 大 ( おおい )に心配するがね」 「うん」 「僕だって一人前の人間だよ」 「無論さ」 「無論なら安心して、僕に信頼したらよかろう。 からだは小さいが、朋友を一人谷底から救い出すぐらいの事は出来るつもりだ」 「じゃ上がるよ。 そらっ……」 「そらっ……もう少しだ」 豆で一面に 腫 ( は )れ上がった両足を、うんと薄の根に踏ん張った碌さんは、 素肌 ( すはだ )を二百十日の雨に 曝 ( さら )したまま、 海老 ( えび )のように腰を曲げて、一生懸命に、傘の 柄 ( え )にかじりついている。 麦藁帽子 ( むぎわらぼうし )を 手拭 ( てぬぐい )で 縛 ( しば )りつけた頭の下から、真赤にいきんだ顔が、八分通り 阿蘇卸 ( あそお )ろしに吹きつけられて、喰い締めた 反 ( そ )っ 歯 ( ぱ )の上には よなが容赦なく降ってくる。 毛繻子張 ( けじゅすば )り 八間 ( はちけん )の 蝙蝠 ( こうもり )の柄には、幸い太い 瘤 ( こぶ )だらけの 頑丈 ( がんじょう )な 自然木 ( じねんぼく )が、付けてあるから、折れる 気遣 ( きづかい )はまずあるまい。 その自然木の 彎曲 ( わんきょく )した一端に、 鳴海絞 ( なるみしぼ )りの 兵児帯 ( へこおび )が、 薩摩 ( さつま )の 強弓 ( ごうきゅう )に新しく張った 弦 ( ゆみづる )のごとくぴんと薄を押し分けて、先は谷の中にかくれている。 その隠れているあたりから、しばらくすると大きな 毬栗頭 ( いがぐりあたま )がぬっと現われた。 やっと云う掛声と共に両手が 崖 ( がけ )の 縁 ( ふち )にかかるが早いか、 大入道 ( おおにゅうどう )の腰から上は、 斜 ( なな )めに 尻 ( しり )に 挿 ( さ )した 蝙蝠傘 ( こうもり )と共に谷から上へ出た。 同時に碌さんは、どさんと 仰向 ( あおむ )きになって、 薄 ( すすき )の底に倒れた。 五 「おい、もう飯だ、起きないか」 「うん。 起きないよ」 「腹の痛いのは 癒 ( なお )ったかい」 「まあ 大抵 ( たいてい )癒ったようなものだが、この様子じゃ、いつ痛くなるかも知れないね。 ともかくも 饂飩 ( うどん )が 祟 ( たた )ったんだから、容易には癒りそうもない」 「そのくらい口が 利 ( き )ければたしかなものだ。 どうだいこれから出掛けようじゃないか」 「どこへ」 「 阿蘇 ( あそ )へさ」 「阿蘇へまだ行く気かい」 「無論さ、阿蘇へ行くつもりで、出掛けたんだもの。 行かない 訳 ( わけ )には行かない」 「そんなものかな。 しかしこの豆じゃ残念ながら致し方がない」 「豆は痛むかね」 「痛むの何のって、こうして寝ていても頭へずうんずうんと響くよ」 「あんなに、 吸殻 ( すいがら )をつけてやったが、 毫 ( ごう )も 利目 ( ききめ )がないかな」 「吸殻で利目があっちゃ大変だよ」 「だって、付けてやる時は大いにありがたそうだったぜ」 「癒ると思ったからさ」 「時に君はきのう怒ったね」 「いつ」 「 裸 ( はだか )で 蝙蝠傘 ( こうもり )を引っ張るときさ」 「だって、あんまり人を 軽蔑 ( けいべつ )するからさ」 「ハハハしかし 御蔭 ( おかげ )で谷から出られたよ。 君が怒らなければ僕は今頃谷底で往生してしまったかも知れないところだ」 「豆を 潰 ( つぶ )すのも構わずに引っ張った上に、裸で 薄 ( すすき )の中へ倒れてさ。 それで君はありがたいとも何とも云わなかったぜ。 君は人情のない男だ」 「その代りこの宿まで 担 ( かつ )いで来てやったじゃないか」 「担いでくるものか。 僕は独立して 歩行 ( ある )いて来たんだ」 「それじゃここはどこだか知ってるかい」 「 大 ( おおい )に人を 愚弄 ( ぐろう )したものだ。 ここはどこだって、阿蘇町さ。 しかもともかくもの 饂飩 ( うどん )を 強 ( し )いられた三軒置いて隣の馬車宿だあね。 半日山のなかを 馳 ( か )けあるいて、ようやく下りて見たら元の所だなんて、全体何てえ 間抜 ( まぬけ )だろう。 これからもう君の 天祐 ( てんゆう )は信用しないよ」 「二百十日だったから悪るかった」 「そうして山の中で 芝居染 ( しばいじ )みた事を云ってさ」 「ハハハハしかしあの時は大いに感服して、うん、うん、て云ったようだぜ」 「あの時は感心もしたが、こうなって見ると 馬鹿気 ( ばかげ )ていらあ。 君ありゃ 真面目 ( まじめ )かい」 「ふふん」 「冗談か」 「どっちだと思う」 「どっちでも好いが、真面目なら忠告したいね」 「あの時僕の経歴談を 聴 ( き )かせろって、泣いたのは誰だい」 「泣きゃしないやね。 足が痛くって心細くなったんだね」 「だって、今日は朝から非常に元気じゃないか、 昨日 ( きのう )た別人の 観 ( かん )がある」 「足の痛いにかかわらずか。 ハハハハ。 実はあんまり馬鹿気ているから、少し腹を立てて見たのさ」 「僕に対してかい」 「だってほかに対するものがないから仕方がないさ」 「いい迷惑だ。 時に君は 粥 ( かゆ )を食うなら 誂 ( あつ )らえてやろうか」 「粥もだがだね。 第一、馬車は何時に出るか聞いて貰いたい」 「馬車でどこへ行く気だい」 「どこって熊本さ」 「帰るのかい」 「帰らなくってどうする。 こんな所に馬車馬と同居していちゃ命が持たない。 ゆうべ、あの枕元でぽんぽん羽目を 蹴 ( け )られたには実に弱ったぜ」 「そうか、僕はちっとも知らなかった。 そんなに音がしたかね」 「あの音が耳に 入 ( はい )らなければ全く剛健党に相違ない。 どうも君は憎くらしいほど 善 ( よ )く寝る男だね。 僕にあれほど堅い約束をして、経歴談をきかせるの、医者の日記を話すのって、いざとなると、まるで正体なしに寝ちまうんだ。 あんまり疲れ過ぎたんだよ」 「時に天気はどうだい」 「上天気だ」 「くだらない天気だ、昨日晴れればいい事を。 ともかくも起きないか」 「起きるって、ただは起きられないよ。 裸で寝ているんだから」 「僕は裸で起きた」 「乱暴だね。 いかに豆腐屋育ちだって、あんまりだ」 「裏へ出て、冷水浴をしていたら、かみさんが着物を持って来てくれた。 乾 ( かわ )いてるよ。 ただ 鼠色 ( ねずみいろ )になってるばかりだ」 「乾いてるなら、取り寄せてやろう」と碌さんは、 勢 ( いきおい )よく、手をぽんぽん 敲 ( たた )く。 台所の方で返事がある。 男の声だ。 「ありゃ 御者 ( ぎょしゃ )かね」 「亭主かも知れないさ」 「そうかな、寝ながら 占 ( うらな )ってやろう」 「占ってどうするんだい」 「占って君と 賭 ( かけ )をする」 「僕はそんな事はしないよ」 「まあ、御者か、亭主か」 「どっちかなあ」 「さあ、早くきめた。 そら、来るからさ」 「じゃ、亭主にでもして置こう」 「じゃ君が亭主に、僕が御者だぜ。 負けた方が今日 一日 ( いちんち )命令に服するんだぜ」 「そんな事はきめやしない」 「御早う……御呼びになりましたか」 「うん呼んだ。 ちょっと僕の着物を持って来てくれ。 乾いてるだろうね」 「ねえ」 「それから腹がわるいんだから、 粥 ( かゆ )を 焚 ( た )いて貰いたい」 「ねえ。 御二人さんとも……」 「おれはただの 飯 ( めし )で沢山だよ」 「では御一人さんだけ」 「そうだ。 それから馬車は何時と何時に出るかね」 「熊本通いは八時と一時に出ますたい」 「それじゃ、その八時で立つ事にするからね」 「ねえ」 「君、いよいよ熊本へ帰るのかい。 せっかくここまで来て 阿蘇 ( あそ )へ 上 ( のぼ )らないのはつまらないじゃないか」 「そりゃ、いけないよ」 「だってせっかく来たのに」 「せっかくは君の命令に 因 ( よ )って、せっかく来たに相違ないんだがね。 せっかくいっしょに来たものだから、いっしょに帰らないのはおかしいよ」 「しかし阿蘇へ登りに来たんだから、登らないで帰っちゃあ済まない」 「誰に済まないんだ」 「僕の主義に済まない」 「また主義か。 窮屈な主義だね。 じゃ一度熊本へ帰ってまた出直してくるさ」 「出直して来ちゃ気が済まない」 「いろいろなものに済まないんだね。 君は元来強情過ぎるよ」 「そうでもないさ」 「だって、今までただの一遍でも僕の云う事を聞いた事がないぜ」 「幾度もあるよ」 「なに一度もない」 「 昨日 ( きのう )も聞いてるじゃないか。 谷から上がってから、僕が登ろうと主張したのを、君が何でも下りようと云うから、ここまで引き返したじゃないか」 「昨日は格別さ。 二百十日だもの。 その代り僕は 饂飩 ( うどん )を何遍も喰ってるじゃないか」 「ハハハハ、ともかくも……」 「まあいいよ。 談判はあとにして、ここに宿の人が待ってるから……」 「そうか」 「おい、君」 「ええ」 「君じゃない。 君さ、おい宿の先生」 「ねえ」 「君は 御者 ( ぎょしゃ )かい」 「いいえ」 「じゃ御亭主かい」 「いいえ」 「じゃ何だい」 「 雇人 ( やといにん )で……」 「おやおや。 それじゃ何にもならない。 いいよ、君、 彼方 ( あっち )へ行っても好いよ」 「ねえ。 では御二人さんとも馬車で御越しになりますか」 「そこが今 悶着中 ( もんちゃくちゅう )さ」 「へへへへ。 八時の馬車はもう直ぐ、 支度 ( したく )が出来ます」 「うん、だから、八時前に悶着をかたづけて置こう。 ひとまず引き取ってくれ」 「へへへへ 御緩 ( ごゆ )っくり」 「おい、行ってしまった」 「行くのは当り前さ。 君が行け行けと 催促 ( さいそく )するからさ」 「ハハハありゃ 御者 ( ぎょしゃ )でも亭主でもないんだとさ。 弱ったな」 「何が弱ったんだい」 「何がって。 僕はこう思ってたのさ。 あの男が御者ですと云うだろう。 すると僕が 賭 ( かけ )に勝つ 訳 ( わけ )になるから、君は何でも僕の命令に服さなければならなくなる」 「なるものか、そんな約束はしやしない」 「なに、したと 見傚 ( みな )すんだね」 「勝手にかい」 「 曖昧 ( あいまい )にさ。 そこで君は僕といっしょに熊本へ帰らなくっちゃあ、ならないと云う訳さ」 「そんな訳になるかね」 「なると思って喜こんでたが、 雇人 ( やといにん )だって云うからしようがない」 「そりゃ当人が雇人だと主張するんだから仕方がないだろう」 「もし御者ですと云ったら、僕は 彼奴 ( あいつ )に三十銭やるつもりだったのに馬鹿な 奴 ( やつ )だ」 「何にも世話にならないのに、三十銭やる必要はない」 「だって君は 一昨夜 ( いっさくや )、あの 束髪 ( そくはつ )の下女に二十銭やったじゃないか」 「よく知ってるね。 華族や金持ちより尊敬すべき資格がある」 「そら出た。 華族や金持ちの出ない日はないね」 「いや、日に何遍云っても云い足りないくらい、毒々しくってずうずうしい者だよ」 「君がかい」 「なあに、華族や金持ちがさ」 「そうかな」 「 例 ( たと )えば今日わるい事をするぜ。 それが成功しない」 「成功しないのは当り前だ」 「すると、同じようなわるい事を 明日 ( あした )やる。 それでも成功しない。 すると、 明後日 ( あさって )になって、また同じ事をやる。 成功するまでは毎日毎日同じ事をやる。 三百六十五日でも七百五十日でも、わるい事を同じように重ねて行く。 重ねてさえ行けば、わるい事が、ひっくり返って、いい事になると思ってる。 言語道断 ( ごんごどうだん )だ」 「言語道断だ」 「そんなものを成功させたら、社会はめちゃくちゃだ。 おいそうだろう」 「社会はめちゃくちゃだ」 「我々が世の中に生活している第一の目的は、こう云う文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与えるのにあるだろう」 「ある。 あるよ」 「あると思うなら、僕といっしょにやれ」 「うん。 やる」 「きっとやるだろうね。 いいか」 「きっとやる」 「そこでともかくも 阿蘇 ( あそ )へ登ろう」 「うん、ともかくも阿蘇へ登るがよかろう」 二人の頭の上では二百十一日の阿蘇が 轟々 ( ごうごう )と百年の不平を限りなき 碧空 ( へきくう )に吐き出している。

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【夏目漱石旧居跡(猫の家)】アクセス・営業時間・料金情報

寒いですね 夏目漱石

人の世 を作ったものは神でもなければ鬼でもない。 矢張り向ふ三軒兩隣りにちらちらする唯の人である。 唯の人が作つた 人の世 が住みにくいからとて、越す國はあるまい。 あれば 人でなし の國へ行く許りだ。 人でなし の國は 人の世 よりも猶住みにくからう。 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容 (くつろげ) て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。 ここに詩人といふ天職が出來て、ここに 畫 家といふ使命が降る。 あらゆる藝術の士は人の世を長閑 (のどか) にし、人の心を豊かにするが故に尊 (たつ) とい。 住みにくき世から、住みにくき煩ひを引き拔いて、難有い世界をまのあたりに寫すのが詩である、畫である。 あるは音樂と彫刻である。 こまかに云へば寫さないでもよい。 只まのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。 着想を紙に落さぬとも璆鏘 (きうさう) の音 (おん) は胸裏に起る。 丹青は畫架に向つて塗沫せんでも五彩の絢爛は自 (おのづ) から心眼に映る。 只おのが住む世を、かく觀じ得て、靈臺方寸のカメラに澆季 (げうき) 溷濁 (こんだく) の俗界を清くうららかに收め得れば足る。 世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知つた。 二十五年にして明暗は表裏の如く、日のあたる所には屹度 (きつと) 影がさすと悟つた。 三十の今日 (こんにち) はかう思ふて居る。 之を切り放さうとすると身が持てぬ。 片付けやうとすれば世が立たぬ。 金は大事だ、大事なものが殖えれば寐る間も心配だらう。 戀はうれしい、嬉しい戀が積もれば、戀をせぬ昔がかへつて戀しかろ。 閣僚の肩は數百萬人の足を支へて居る。 脊中には重い天下がおぶさつて居る。 うまい物も食はねば惜しい。 少し食へば飽き足らぬ。 存分食へばあとが不愉快だ。 …… 余の考がこゝ迄漂流して來た時に、余の右足は突然坐りのわるい角石の端を踏み損くなつた。 平衡を保す爲めに、すはやと前に飛び出した左足が、仕損じの埋め合せをすると共に、余の腰は具合よく方三尺程な岩の上に卸 (お) りた。 肩にかけた繪の具箱が腋の下から躍り出した丈で、幸ひと何の事もなかつた。 立ち上る時に向ふを見ると、路から左の方にバケツを伏せた樣な峯が聳えて居る。 杉か檜か分からないが根元から頂き迄悉く蒼黑い中に、山櫻が薄赤くだんだらに棚引いて、續ぎ目が確と見えぬ位靄が濃い。 少し手前に禿山が一つ、群を拔きんでゝ眉に逼る。 禿げた側面は巨人の斧で削り去つたか、鋭どき平面をやけに谷の底に埋めて居る。 天邊に一本見えるのは赤松だらう。 枝の間の空さへ判然して居る。 行く手は二丁程で切れて居るが、高い所から赤い毛布 (けつと) が動いて來るのを見ると、登ればあすこへ出るのだらう。 路は頗る難義だ。 土をならす丈なら左程手間も入るまいが、土の中には大きな石がある。 土は平らにしても石は平らにならぬ。 石は切り碎いても、岩は始末がつかぬ。 堀崩した土の上に悠然と峙 (そばだ) つて、吾等の爲めに道を讓る景色はない。 向ふで聞かぬ上は乘り越すか、廻らなければならん。 巖 (いは) のない所でさへ歩るきよくはない。 左右が高くつて、中心が窪んで、丸で一間幅を三角に穿 (く) つて、其頂點が眞中を貫いてゐると評してもよい。 路を行くと云はんより川底を渉ると云ふ方が適當だ。 固より急ぐ旅ではないから、ぶらぶらと七曲りへかゝる。 忽ち足の下で雲雀の聲がし出した。 谷を見下 (みおろ) したが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。 只聲だけが明らかに聞える。 せつせと忙 (せは) しく、絶間なく鳴いて居る。 方幾里の空氣が一面に蚤に刺されて居たゝまれない樣な氣がする。 あの鳥の鳴く音 (ね) には瞬時の餘裕もない。 のどかな春の日を鳴き盡くし、鳴きあかし、又鳴き暮らさなければ氣が濟まんと見える。 其上どこ迄も登つて行く、いつ迄も登つて行 (ゆ) く。 雲雀は屹度雲の中で死ぬに相違ない。 登り詰めた揚句は、流れて雲に入 (い) つて、漂ふて居るうちに形は消えてなくなつて、只聲丈が空の裡 (うち) に殘るのかも知れない。 巖角を鋭どく廻つて、按摩なら眞逆樣に落つる所を、際どく右へ切れて、横に見下すと、菜の花が一面に見える。 雲雀はあすこへ落ちるのかと思つた。 いゝや、あの黄金 (こがね) の原から飛び上がつてくるのかと思つた。 次には落ちる雲雀と、上 (あが) る雲雀が十文字にすれ違ふのかと思つた。 最後に、落ちる時も、上る時も、また十文字に擦れ違ふときにも元氣よく鳴きつゞけるだらうと思つた。 春は眠くなる。 猫は鼠を捕る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。 時には自分の魂の居所さへ忘れて正體なくなる。 只菜の花を遠く望んだときに眼が醒める。 雲雀の聲を聞いたときに魂のありかゞ判然する。 雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全體が鳴くのだ。 魂の活動が聲にあらはれたものゝうちで、あれ程元氣のあるものはない。 あゝ愉快だ。 かう思つて、かう愉快になるのが詩である。 忽ちシエレーの雲雀の詩を思ひ出して、口のうちで覺えた所だけ暗誦して見たが、覺えて居る所は二三句しかなかつた。 其二三句のなかにこんなのがある。 We look before and after And pine for what is not : Our sincerest laughter With some pain is fraught ; Our sweetest songs are those that tell of saddest thought. 「前を見ては、後 (しり) へを見ては、物欲しと、あこがる ゝ かなわれ。 腹からの、笑といへど、苦しみの、そこにあるべし。 うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想、籠るとぞ知れ」 成程いくら詩人が幸福でも、あの雲雀の樣に思ひ切つて、一心不亂に、前後を忘却して、わが喜びを歌ふ譯には行 (ゆ) くまい。 西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく萬斛の愁など ゝ云ふ字がある。 詩人だから 萬斛で素人なら一合で濟むかも知れぬ。 して見ると詩人は常の人よりも苦勞性で、凡骨の倍以上に神經が鋭敏なのかも知れん。 超俗の喜びもあらうが、無量の悲も多からう。 そんならば詩人になるのも考へ物だ。 しばらくは路が平で、右は雜木山、左は菜の花の見つゞけである。 足の下に時々蒲公英を踏みつける。 鋸の樣な葉が遠慮なく四方へのして眞中に黄色な珠を擁護して居る。 菜の花に氣をとられて、踏みつけたあとで、氣の毒な事をしたと、振り向いて見ると、黄色な珠は依然として鋸のなかに鎭座して居る。 呑氣なものだ。 又考へをつゞける。 詩人に憂はつきものかも知れないが、あの雲雀を聞く心持になれば微塵の苦もない。 菜の花を見ても、只うれしくて胸が躍る許りだ。 かう山の中へ來て自然の景物に接すれば、見るものも聞くものも面白い。 面白い丈で別段の苦しみも起らぬ。 起るとすれば足が草臥れて、旨いものが食べられぬ位の事だらう。 然し苦しみのないのは何故だらう。 只此景色を一幅の畫 (ゑ) として觀、一巻の詩として讀むからである。 畫 (ぐわ) であり詩である以上は地面を貰つて、開拓する氣にもならねば、鐵道をかけて一儲けする了見も起らぬ。 自然の力は是に於て尊 (たつ) とい。 吾人の性情を瞬刻に陶冶して醇乎として醇なる詩境に入 (い) らしむるのは自然である。 戀はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛國も結構だらう。 然し自身が其局に當れば利害の旋風 (つむじ) に捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んで仕舞ふ。 從つてどこに詩があるか自身には解 (げ) しかねる。 これがわかる爲めには、わかる丈の餘裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。 三者の地位に立てばこそ芝居は觀て面白い。 小説も見て面白い。 芝居を見て面白い人も、小説を讀んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げて居る。 見たり讀んだりする間丈は詩人である。 それすら、普通の芝居や小説では人情を免かれぬ。 苦しんだり、怒つたり、騒いだり、泣いたりする。 見るものもいつか其中に同化して苦しんだり、怒つたり、騒いだり、泣いたりする。 取柄は利慾が交らぬと云ふ點に存するかも知れぬが、交らぬ丈に其他の情緒 (じやうしよ) は常よりは餘計に活動するだらう。 それが嫌だ。 苦しんだり、怒つたり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。 余も三十年の間それを仕通して、飽々 (あきあき) した。 飽き々々した上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大變だ。 余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞する樣なものではない。 俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。 いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少からう。 どこ迄も世間を出る事が出來ぬのが彼等の特色である。 ことに西洋の詩になると、人事が根本になるから所謂詩歌の純粹なるものも此境を解脱する事を知らぬ。 どこ迄も同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勸工場 (くわんこうば) にあるものだけで用を辨じて居る。 いくら詩的になつても地面の上を馳けあるいて、錢の勘定を忘れるひまがない。 シエレーが雲雀を聞いて嘆息したのも無理はない。 うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。 採菊東籬下、悠然見南山。 只それぎりの裏 (うち) に暑苦しい世の中を丸で忘れた光景が出てくる。 垣の向ふに隣りの娘が覗いてる譯でもなければ、南山に親友が奉職して居る次第でもない。 超然と出世間的に利害損得の汗を流し去つた心持ちになれる。 獨坐幽篁裏、彈琴復長嘯、深林人不知、明月來相照。 只二十字のうちに優に別乾坤を建立して居る。 此乾坤の功德は「不如歸」や「金色夜叉」の功德ではない。 汽船、汽車、權利、義務、道德、禮義で疲れ果てた後、凡てを忘却してぐつすりと寐込む樣な功德である。 二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀に此出世間的の詩味は大切である。 惜しい事に今の詩を作る人も、詩を讀む人もみんな、西洋人にかぶれて居るから、わざわざ呑気な扁舟を泛べて此桃源に溯るものはない樣だ。 余は固より詩人を職業にして居らんから、王維や淵明の境界を今の世に布敎して廣げやうと云ふ心掛も何もない。 只自分にはかう云ふ感興が演藝會よりも舞踏會よりも藥になる樣に思はれる。 フアウストよりも、ハムレツトよりも難有く考へられる。 かうやつて、只一人繪の具箱と三脚几を擔いで春の山路 (やまぢ) をのそのそあるくのも全く之が爲めである。 淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遙したいからの願。 一つの醉興だ。 勿論人間の一分子だから、いくら好きでも、非人情はさう長く續く譯には行 (い) かぬ。 淵明だつて年が年中南山を見詰めて居たのでもあるまいし、王維も好んで竹藪の中に蚊帳を釣らずに寐た男でもなからう。 矢張り餘つた菊は花屋へ賣りこかして、生えた筍は八百屋へ拂ひ下げたものと思ふ。 かう云ふ余も其通り。 いくら雲雀と菜の花が氣に入つたつて、山のなかへ野宿する程非人情が募つては居らん。 こんな所でも人間に逢ふ。 じんじん端折 (ばしよ) りの頰冠りや、赤い腰巻の姉 (あね) さんや、時には人間より顔の長い馬に迄逢ふ。 百萬本の檜に取り圍まれて、海面を拔く何百尺かの空氣を呑んだり吐いたりしても、人の臭ひは中々取れない。 夫れ所か、山を越えて落ちつく先の、今宵の宿は那古井の温泉場 (をんせんば) だ。 唯、物は見樣でどうでもなる。 レオナルド、ダ、 ヸ ンチが弟子に告げた言 (ことば) に、あの鐘の音を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある。 一人の男、一人の女も見樣次第で如何様 (いかやう) とも見立てがつく。 どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、其積りで人間を見たら、浮世小路の何軒目に狹苦しく暮した時とは違ふだらう。 よし全く人情を離れる事が出來んでも、責めて御能拜見の時位は淡い心持ちにはなれさうなものだ。 能にも人情はある。 七騎落 (しちきおち) でも、墨田川でも泣かぬとは保證が出來ん。 然しあれは情三分藝七分で見せるわざだ。 我等が能から享ける難有味は下界の人情をよく 其儘に寫す手際から出てくるのではない。 其儘の上へ藝術といふ着物を何枚も着せて、世の中にあるまじき悠長な振舞をするからである。 しばらく此旅中に起る出來事と、旅中に出逢ふ人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだらう。 丸で人情を棄てる譯には行 (い) くまいが、根が詩的に出來た旅だから、非人情のやり序でに、可成 (なるべく) 節儉してそこ迄は漕ぎ付けたいものだ。 南山や幽篁とは性 (たち) の違つたものに相違ないし、又雲雀や菜の花と一所にする事も出來まいが、可成 (なるべく) 之 (これ) に近づけて、近づけ得る限りは同じ觀察點から人間を視てみたい。 芭蕉と云ふ男は枕元へ馬が屎 (いばり) するのをさへ雅 (が) な事と見立てゝ發句にした。 尤も畫中の人物と違つて、彼等はおのがじゝ勝手な眞似をするだらう。 然し普通の小説家の樣に其勝手な眞似の根本を探ぐつて、心理作用に立ち入つたり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。 動いても構はない。 畫中の人間が動くと見れば差し支 (つかへ) ない。 畫中の人物はどう動いても平面以外に出られるものでない。 平面以外に飛び出して、立方的に働くと思へばこそ、此方 (こつち) と衝突したり、利害の交渉が起つたりして面倒になる。 面倒になればなる程美的に見て居る譯に行 (い) かなくなる。 是から逢ふ人間には超然と遠き上から見物する氣で、人情の電氣が無暗に双方で起らない樣にする。 さうすれば相手がいくら働いても、こちらの懷 (ふところ) には容易に飛び込めない譯だから、つまりは畫の前に立つて、畫中の人物が畫面の中 (うち) をあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ譯になる。 間三尺も隔てゝ居 (を) れば落ち付いて見られる。 あぶな氣なしに見られる。 言 (ことば) を換へて云へば、利害に氣を奪はれないから、全力を擧げて彼等の動作を藝術の方面から觀察する事が出來る。 餘念もなく美か美でないかと鑒識する事が出來る。 こゝ迄決心をした時、空があやしくなつて來た。 煮え切れない雲が、頭の上へ靠垂 (もた) れ懸つて居たと思つたが、いつのまにか、崩れ出して、四方は只雲の海かと怪しまれる中から、しとしとと春の雨が降り出した。 菜の花は疾 (と) くに通り過して、今は山と山の間を行 (ゆ) くのだが、雨の糸が濃 (こまや) かで殆んど霧を欺く位だから、隔たりはどれ程かわからぬ。 時々風が來て、高い雲を吹き拂ふとき、薄黑い山の脊が右手に見える事がある。 何でも谷一つ隔てゝ向ふが脉の走つて居る所らしい。 左はすぐ山の裾と見える。 深く罩 (こ) める雨の奥から松らしいものが、ちよくちよく顔を出す。 出すかと思ふと、隱れる。 雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか、何となく不思議な心持ちだ。 路は存外廣くなつて、且つ平だから、あるくに骨は折れんが、雨具の用意がないので急ぐ。 帽子から雨垂れがぽたりぽたりと落つる頃、五六間先きから、鈴の音 (おと) がして、黑い中から、馬子がふうとあらはれた。 「こゝらに休む所はないかね」 「もう十五丁行 (ゆ) くと茶屋がありますよ。 大分濡れたね」 まだ十五丁かと、振り向いて居るうちに、馬子の姿は影畫の樣に雨につゝまれて、又ふうと消えた。 糠の樣に見えた粒は次第に太く長くなつて、今は一筋毎に風に捲かれる樣迄が目に入 (い) る。 羽織はとくに濡れ盡して肌着に浸み込んだ水が、身體の温度 (ぬくもり) で生暖く感ぜられる。 氣持がわるいから、帽を傾けて、すたすた歩行 (ある) く。 茫々たる薄墨色の世界を、幾條の銀箭が斜めに 走るなかを、ひたぶるに濡れて行 (ゆ) くわれを、われならぬ人の姿と思へば、詩にもなる、句にも咏まれる。 有體なる己れを忘れ盡して純客觀に眼をつくる時、始めてわれは畫中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ。 只降る雨の心苦しくて、踏む足の疲れたるを氣に掛ける瞬間に、われは既に詩中の人にもあらず、畫裡の人にもあらず。 依然として市井の一豎子に過ぎぬ。 雲烟飛動の趣も眼に入 (い) らぬ。 落花啼鳥の情けも心に浮ばぬ。 蕭々として獨り春山 (しゆんざん) を行 (ゆ) く吾の、いかに美しきかは猶更に解 (かい) せぬ。 初めは帽を傾けて 歩行 (あるい) た。 後には唯足の甲のみを見詰めてあるいた。 終りには肩をすぼめて、恐る恐る歩行 (あるい) た。 雨は滿目の樹梢を搖 (うご) かして四方より孤客 (こかく) に逼る。 非人情がちと強過ぎた樣だ。 二 「おい」と聲を掛けたが返事がない。 軒下から奥を覗くと煤けた障子が立て切つてある。 向ふ側は見えない。 五六足の草鞋が淋しさうに庇から吊されて、屈托氣 (くつたくげ) にふらりふらりと搖れる。 下に駄菓子の箱が三つ許り並んで、そばに五厘錢と文久錢が散らばつて居る。 「おい」と又聲をかける。 土間の隅に片寄せてある臼の上に、ふくれて居た鷄が、驚いて眼をさます。 クヽヽ、クヽヽと騒ぎ出す。 敷居の外に土竈 (どべつつひ) が、今しがたの雨に濡れて、半分程色が變つてる上に、眞黑な茶釜がかけてあるが、土の茶釜か、銀の茶釜かわからない。 幸ひ下は焚きつけてある。 返事がないから、無斷でずつと這入つて、床几の上へ腰を卸した。 鷄は羽搏きをして臼から飛び下りる。 今度は疊の上へあがつた。 障子がしめてなければ奥迄馳 (か) けぬける氣かも知れない。 雄が太い聲でこけつこつこと云ふと、雌が細い聲でけゝつこつこと云ふ。 丸で余を狐か狗の樣に考へてゐるらしい。 床几の上には一升枡程な煙草盆が閑靜に控へて、中にはとぐろを捲いた線香が、日の移るのを知らぬ顔で、頗る悠長に燻 (いぶ) つて居る。 雨は次第に収まる。 しばらくすると、奥の方から足音がして、煤けた障子がさらりと開 (あ) く。 なかゝら一人の婆さんが出る。 どうせ誰か出るだらうとは思つて居た。 竈 (へつい) に火は燃えてゐる。 菓子箱の上に錢が散らばつて居る。 線香は呑気に燻つてゐる。 どうせ出るには極つてゐる。 しかし自分の見世 (みせ) を明け放しても苦にならないと見える所が、少し都とは違つてゐる。 返事がないのに床几に腰をかけて、いつ迄も待つてるのも少し二十世紀とは受け取れない。 こゝらが非人情で面白い。 其上出て來た婆さんの顔が氣に入つた。 二三年前 (ぜん) 寶生の舞臺で高砂を見た事がある。 その時これはうつくしい活人畫だと思つた。 箒を擔いだ爺さんが橋懸りを五六歩來て、そろりと後向になつて、婆さんと向ひ合ふ。 その向ひ合ふた姿勢が今でも眼につく。 余の席からは婆さんの顔が殆んど眞むきに見えたから、あゝうつくしいと思つた時に、其表情はぴしゃりと心のカメラへ燒き付いて仕舞つた。 茶店の婆さんの顔は此寫眞に血を通はした程似て居る。 「御婆さん、此所を一寸借りたよ」 「はい、是は、一向存じませんで」 「大分降つたね」 「生憎な御天気で、嘸 (さぞ) 御困りで御座んしよ。 おゝおゝ大分御濡れなさつた。 今火を焚いて乾かして上げましよ」 「そこをもう少し燃し付けてくれゝば、あたりながら乾かすよ。 どうも少し休んだら寒くなつた」 「へえ、只今焚いて上げます。 まあ御茶を一つ」 と立ち上がりながら、しつしつと二聲で鷄を追ひ下げる。 こゝゝゝと馳け出した夫婦は、焦茶色の疊から、駄菓子箱の中を踏みつけて、徃來へ飛び出す。 雄の方が逃げるとき駄菓子の上へ糞を垂れた。 「まあ一つ」と婆さんはいつの間にか刳り拔き盆の上に茶碗をのせて出す。 茶の色の黑く焦げて居る底に、一筆がきの梅の花が三輪無雜作に燒き付けられて居る。 「御菓子を」と今度は鶏の踏みつけた胡麻ねぢと微塵棒を持つてくる。 糞はどこぞに着いて居 (を) らぬかと眺めて見たが、それは箱のなかに取り殘されてゐた。 婆さんは袖無しの上から、襷をかけて、竈 (へつつひ) の前へうづくまる。 余は懷から寫生帖を取り出して、婆さんの横顔を寫しながら、話しをしかける。 「閑靜でいゝね」 「へえ、御覧の通りの山里で」 「鶯は鳴くかね」 「えゝ毎日の樣に鳴きます。 此邊 (こゝら) は夏も鳴きます」 「聞きたいな。 「さあ、御あたり。 嘸 (さぞ) 御寒かろ」と云ふ。 軒端を見ると靑い烟りが、突き當つて崩れながらに、微かな痕 (あと) をまだ板庇にからんで居る。 「あゝ、好い心持ちだ、御蔭で生き返つた」 「いゝ具合に雨も晴れました。 そら天狗巖 (てんぐいは) が見え出しました」 逡巡として曇り勝ちなる春の空を、もどかしと許りに吹き拂ふ山嵐の、思ひ切りよく通り拔けた前山 (ぜんざん) の一角は、未練もなく晴れ盡して、老嫗 (らうう) の指さす方に 岏 (さんぐわん) と、あら削りの柱の如く聳えるのが天狗岩ださうだ。 余はまづ天狗巖を眺めて、次に婆さんを眺めて、三度目には半々に兩方を見比べた。 畫家として余が頭のなかに存在する婆さんの顔は高砂の媼 (ばゞ) と、蘆雪のかいた山姥のみである。 蘆雪の圖を見たとき、理想の婆さんは物凄いものだと感じた。 紅葉 (もみぢ) のなかゝ、寒い月の下に置くべきものと考へた。 寶生の別能會を觀るに及んで、成程老女にもこんな優しい表情があり得るものかと驚ろいた。 あの面は定めて名人の刻んだものだらう。 惜しい事に作者の名は聞き落したが、老人もかうあらはせば、豐かに、穩やかに、あたゝかに見える。 金屏にも、春風にも、あるは櫻にもあしらつて差し支ない道具である。 余は天狗岩よりは、腰をのして、手を翳 (かざ) して、遠く向ふを指 (ゆびさ) してゐる、袖無し姿の婆さんを、春の山路 (やまぢ) の景物として恰好なものだと考へた。 余が寫生帖を取り上げて、今暫くといふ途端に、婆さんの姿勢は崩れた。 手持無沙汰に寫生帖を、火にあてゝ乾かしながら、 「御婆さん、丈夫さうだね」と訊ねた。 「はい。 然しそんな注文も出來ぬから、 「こゝから那古井迄は一里足らずだつたね」と別な事を聞いて見る。 「はい、二十八丁と申します。 旦那は湯治に御越しで……」 「込み合はなければ、少し逗留しやうかと思ふが、まあ氣が向けばさ」 「いえ、戰爭が始まりましてから、頓と參るものは御座いません。 丸で締め切り同樣で御座います」 「妙な事だね。 それぢや泊めて呉れないかも知れんね」 「いえ、御頼みになればいつでも宿 (と) めます」 「宿屋はたつた一軒だつたね」 「へえ、志保田さんと御聞きになればすぐわかります。 村のものもちで、湯治場だか、隱居所だかわかりません」 「ぢや御客がなくても平氣な譯だ」 「旦那は始めてゞ」 「いや、久しい以前一寸行つた事がある」 會話はちよつと途切れる。 帳面をあけて先刻 (さつき) の鷄を靜かに寫生して居ると、落ち付いた耳の底へぢやらんぢやらんと云ふ馬の鈴が聽え出した。 此聲がおのづと、拍子をとつて頭の中に一種の調子が出來る。 眠りながら、夢に隣りの臼の音に誘はれる樣な心持ちである。 余は鷄の寫生をやめて、同じページの端 (はじ) に、 春風や惟然が耳に馬の鈴 と書いて見た。 山を登つてから、馬には五六匹逢つた。 逢つた五六匹は皆腹掛をかけて、鈴を鳴らして居る。 今の世の馬とは思はれない。 やがて長閑な馬子唄が、春に更けた空山一路の夢を破る。 憐れの底に氣樂な響がこもつて、どう考へても畫にかいた聲だ。 馬子唄の鈴鹿越ゆるや春の雨 と、今度は斜 (はす) に書き付けたが、書いて見て、是は自分の句でないと氣が付いた。 「又誰ぞ來ました」と婆さんが半ば獨り言の樣に云ふ。 只一條 (ひとすぢ) の春の路だから、行 (ゆ) くも歸るも皆近付きと見える。 最前逢ふた五六匹のぢやらんぢやらんも悉く此婆さんの腹の中で又誰ぞ來たと思はれては山を下り、思はれては山を登つたのだらう。 路 (みち) 寂寞 (じやくまく) と古今の春を貫いて、花を厭へば足を着くるに地なき小村に、婆さんは幾年 (いくねん) の昔からぢやらん、ぢやらんを數へ盡くして、今日 (こんにち) の白頭に至つたのだらう。 馬子唄や白髮も染めで暮るゝ春 と次のページへ認 (したゝ) めたが、是では自分の感じを云ひ終 (おほ) せない、もう少し工夫のありさうなものだと、鉛筆の先を見詰めながら考へた。 何でも 白髮といふ字を入れて、 幾代の節 (ふし) と云ふ句を入れて、 馬子唄といふ題も入れて、春の季も加へて、それを十七字に纏めたいと工夫して居るうちに、 「はい、今日 (こんにち) は」と實物の馬子が店先に留つて大きな聲をかける。 「おや源さんか。 又城下へ行 (い) くかい」 「何か買物があるなら頼まれて上げよ」 「さうさ、鍛冶町 (かぢちやう) を通つたら、娘に靈嚴寺 (れいがんじ) の御札を一枚もらつてきて御呉れなさい」 「はい、貰つてきよ。 一枚か。 な、御叔母 (おば) さん」 「難有い事に今日 (こんにち) には困りません。 まあ仕合せと云ふのだろか」 「仕合せとも、御前 (おまへ)。 あの那古井の孃さまと比べて御覧」 「本當に御氣の毒な。 あんな器量を持つて。 近頃はちつとは具合がいゝかい」 「なあに、相變らずさ」 「困るなあ」と婆さんが大きな息をつく。 「困るよう」と源さんが馬の鼻を撫でる。 枝繁き山櫻の葉も花も、深い空から落ちた儘なる雨の塊まりを、しつぽりと宿して居たが、此時わたる風に足をすくはれて、居たゝまれずに、假りの住居 (すまひ) を、さらさらと轉げ落ちる。 馬は驚ろいて、長い鬣 (たてがみ) を上下 (うへした) に振る。 「コーラツ」と叱り付ける源さんの聲が、ぢやらん、ぢやらんと共に余の瞑想を破る。 御婆さんが云ふ。 「源さん、わたしや、お嫁入りのときの姿が、まだ眼前 (めさき) に散らついて居る。 裾模樣の振袖に、高島田で、馬に乘つて……」 「さうさ、船ではなかつた。 馬であつた。 矢張り此所 (こゝ) で休んで行つたな、御叔母 (おば) さん」 「あい、其櫻の下で孃樣の馬がとまつたとき、櫻の花がほろほろと落ちて、折角の島田に斑 (ふ) が出來ました」 余は又寫生帖をあける。 此景色は畫にもなる、詩にもなる。 心のうちに花嫁の姿を浮べて、當時の樣を想像して見てしたり顔に、 花の頃を越えてかしこし馬に嫁 と書き付ける。 不思議な事には衣裳も髮も馬も櫻もかつきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思ひつけなかつた。 しばらくあの顔か、この顔か、と思案して居るうちに、ミレーのかいた、オフエリヤの面影が忽然と出て來て、高島田の下へすぽりとはまつた。 是は駄目だと、折角の圖面を早速取り崩す。 衣装も髮も馬も櫻も一瞬間に心の道具立から奇麗に立ち退いたが、オフエリヤの合掌して水の上を流れて行 (ゆ) く姿丈は、朦朧と胸の底に殘つて、棕櫚箒で烟を拂ふ樣に、さつぱりしなかつた。 空に尾を曳く彗星の何となく妙な氣になる。 「それぢや、まあ御免」と源さんが挨拶する。 「歸りに又御寄り。 生憎の降りで七曲りは難義だろ」 「はい、少し骨が折れよ」と源さんは歩行 (あるき) 出す。 源さんの馬も歩行出す。 ぢやらんぢやらん。 「あれは那古井の男かい」 「はい、那古井の源兵衛で御座んす」 「あの男がどこぞの嫁さんを馬へ乘せて、峠を越したのかい」 「志保田の孃樣が城下へ御輿入 (おこしいれ) のときに、孃樣を靑馬 (あを) に乘せて、源兵衛が覇絏 (はづな) を牽いて通りました。 指を折つて始めて、五年の流光に、轉輪の疾き趣を解し得たる婆さんは、人間としては寧ろ仙に近づける方だらう。 余は斯う答へた。 「嘸 (さぞ) 美くしかつたらう。 見にくればよかつた」 「ハヽヽ今でも御覧になれます。 湯治場へ御越しなされば、屹度出て御挨拶をなされませう」 「はあ、今では里に居るのかい。 矢張り裾模樣の振袖を着て、高島田に結 (い) つて居ればいゝが」 「たのんで御覧なされ。 着て見せましよ」 余はまさかと思つたが、婆さんの樣子は存外眞面目である。 非人情の旅にはこんなのが出なくては面白くない。 婆さんが云ふ。 「孃樣と長良の乙女とはよく似て居ります」 「顔がかい」 「いゝえ。 身の成り行きがで御座んす」 「へえ、其長良の乙女と云ふのは何者かい」 「昔し此村に長良の乙女と云ふ、美くしい長者の娘が御座りましたさうな」 「へえ」 「所が其娘に二人の男が一度に懸想して、あなた」 「なる程」 「さゝだ男に靡かうか、さゝべ男に靡かうかと、娘はあけくれ思ひ煩つたが、どちらへも靡きかねて、とうとう あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも と云ふ歌を咏んで、淵川へ身を投げて果てました」 余はこんな山里へ來て、こんな婆さんから、こんな古雅な言葉で、こんな古雅な話をきかうとは思ひがけなかつた。 「是から五丁東へ下ると、道端に五輪塔が御座んす。 序に長良の乙女の墓を見て御行 (おい) きなされ」 余は心のうちに是非見て行かうと決心した。 婆さんは、そのあとを語りつゞける。 「那古井の孃樣にも二人の男が祟りました。 所へ今度の戰爭で、旦那様の勤めて御出の銀行がつぶれました。 それから孃樣は又那古井の方へ御歸りになります。 世間では孃樣の事を不人情だとか、薄情だとか色々申します。 もとは極々内氣の優しいかたが、此頃では大分氣が荒くなつて、何だか心配だと源兵衛が來るたびに申します。 ……」 是からさきを聞くと、折角の趣向が壞れる。 漸く仙人になりかけた所を、誰か來て羽衣を歸せ歸せと催促する樣な氣がする。 七曲りの險を冒して、やつとの思で、こゝまで來たものを、さう無暗に俗界に引きずり下 (おろ) されては、飄然と家を出た甲斐がない。 世間話しもある程度以上に立ち入ると、浮世の臭ひが毛孔から染込んで、垢で身體が重くなる。 「御婆さん、那古井へは一筋道だね」と十錢銀貨を一枚床几の上へかちりと投げ出して立ち上がる。 「長良の五輪塔から右へ御下りなさると、六丁程の近道になります。 路はわるいが、御若い方には其方がよろしかろ。 2. 『草枕』は、明治39年9月1日発行の『新小説』で発表されました。 3. 「二」の中に出てくる の漢字は、 音、サン。 岏(さんがん)とは、 「ごつごつした山のこと」と漢和辞書にあります。 上記の岩波の全集の巻末 の注解には、「切りたったような山のこと」とあります。 なお、「 」 (山+賛) の漢字は、島根県立大学の を使用しま した。 4. 原文の、平仮名の「く」を縦に長くした形の繰り返し符号(踊り字・くの字点) は、 普通の仮名に改めました。 (「ちらちら」、及び「愈」のルビの「いよいよ」など) 5 . 全 集の原文は総ルビ ですが、ここでは一部の漢字のルビのみを残して、 他は省略しました。 (ルビは、括弧に入れて示しました。 ) 6 . 文中の下線の部分は、原文では傍点になっている所です。 7 . 「背中」が「脊中」になっているのは、原文のままです。 また、能や謡曲の 「墨田川」は、「隅田川」「角田川」とも書くそうです。 ここで、岩波の全集の「注解」から、漱石の勘違いと思われる箇所に触れて おきます。 じんじん端折り……爺端折りの転というから、正しくは「ぢんぢん……」 枕元へ馬が屎 (いばり) する……「屎」は「尿」が正しい。 箒を擔いだ爺さん……漱石の記憶の誤りで、これは「高砂」の能のシテツレ 姥 (うば) でなければならない。 婆さん……この方が前シテの尉 (じょう) で、宝生流では竹把 (さらえ、熊手) を担 いで出る。 8 . なお、『草枕』の全文を、電子図書館で読むことができます。 9 . 熊本国府高等学校PC同好会の制作したホームページ があり、そこに「草枕の旅」・「熊本時代の漱石」などのページがあって参考に なります。 10 . 熊本県玉名市の ホームページに というページがあって、草枕に関するいろいろな資料が用意されています。 11. 奈良国立博物館の ホームページで、松岡映丘及びその一門が描いた全3巻 の『草枕絵巻』の映像を見ることができます。 この 「夏目漱石ライブラリー」には、「夏目漱石について」「漱石文庫について」 「漱石文庫目録」「漱石文庫関係文献目録」のページがあります。 13. は、夏目漱石旧蔵書(東北大学「漱石文庫」を含む) について言及している文献を収集したもので、該当部分の記事を抜粋して収録し てあります。 14. という、漱石関連の情報を集めたページがあります。 15. ロンドン漱石記念館は、2016年9月末で一時休館していたそうですが、2018年 夏に再オープンするそうです。 『小林恭子の英国メディア・ウオッチ』というブログに、ロンドン漱石記念館の 紹介記事があって、参考になります。 17 .漱石が泊まった小天温泉ののホームページがあり、漱石に関す る写真や記述があって、参考になります。 18. カナダの天才ピアニスト グレン・グールドが漱石の『草枕』を愛読していた という事実は、よく知られています。 朝日新聞記者の横田庄一郎氏は、その著『「草枕」変奏曲 夏目漱石とグレン・ グールド 』 (1998年5月30日、朔北社発行)の「はじめに」の中で、「この人ほど 『草枕』を愛読したという話をほかには聞かない。 しかも日本人ではなく、外国 人であり、世界的な著名人でもある。 カナダに生まれてカナダに没した、実に個性あふれる人物であった。 彼はこの 漱石の『草枕』を「二十世紀の小説の最高傑作の一つ」と評価し、死に至るまで 手元に置いて愛読していたのである。 」と書いておられます。 というホームページがあ ります。 グールドに興味をお持ちの方はどうぞ。 グールドの演奏(ベートーベン の「ゴールドベルク変奏曲」)が3分間ほど聴けるサイトの紹介もあります。 19. というサイトの「会ってみたいな、この人に」(銅 像巡り・銅像との出会い)に、新宿区早稲田南町の漱石公園(漱石山房跡)にあ るや、漱石誕生の地の紹介などがあります。 20. 渡部芳紀先生の(夏目漱石文学散歩)があります。 (参考).

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