江原 啓之 志村 けん。 江原啓之、手越祐也の行動を肯定「32歳の男なら独立したい、挑戦したいと思うのは普通の気持ちだと思う」

金スマに志村けんさん登場・・・

江原 啓之 志村 けん

スピリチュアリストでタレントの江原啓之(55)が24日放送のTOKYO MX「5時に夢中」(月~金曜・後5時)に出演。 19日にジャニーズ事務所との専属契約を合意解除して退所した元NEWSの手越祐也(32)が23日、都内で記者会見を行ったことについてコメントした。 会見で一連の報道について「事実と違う情報が多すぎた」と反論しつつ、経緯や今後の意気込みについて約2時間の熱弁。 退所は5~6年前から考え、今年3月に正式に事務所とメンバーに意向を伝えていたといい、「このままの自分でいいのかと思った」と語った。 江原は手越の言動について「別に問題ないと思う。 もう32歳なんですよね。 32歳の男なら独立したい、挑戦したいと思うのは普通の気持ちだと思う」と肯定。 その上で「アイドルって、何歳までアイドルって言うのか気になります。 一方で宝塚みたいにある程度の年齢とかで退団とかあるし。 とにかく、手越さん(の退所)には不自然さを感じない。 いろいろな人脈も32歳ならあるだろうし」と話していた。 報知新聞社.

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江原啓之さんはフジの27時間テレビで何をしたのですか?

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「これまでドラマ出演のオファーはすべて断っていたそうです。 しかし今回の朝ドラには、並々ならぬ熱意を持っていました。 いつも台本を持ち歩いているほどで、周囲からも期待の声が上がっていたんです」(テレビ局関係者) 3月29日、志村けんさんが新型コロナウイルスによる肺炎でこの世を去った。 享年70。 各紙によると近親者のみで通夜・葬儀・告別式を行い、後日にお別れの会の開催を検討しているという。 17日に倦怠感を訴え自宅静養に入り、19日に発熱と呼吸困難の症状が出たという志村さん。 20日に主治医から重度の肺炎と診断され、緊急入院することになった。 医師が新型コロナウイルスの検査を実施し、23日に陽性と判明。 24日には感染症の専門病院に転院し、ICUで治療を受けているとも報じられていた。 12月公開予定の松竹100周年記念映画『キネマの神様』で初主演が決定していた志村さん。 そしてもうひとつ意欲を燃やしていたのが、初のドラマ出演だった。 3月30日にスタートしたNHK連続テレビ小説『エール』。 志村さんは日本を代表する作曲家・小山田耕三役で出演し、昨年12月から収録に参加。 3月6日にもシーンの収録が行われていたという。 70歳にして役者挑戦を続けていた志村さん。 その裏には今のテレビ業界を憂う考えがあったようだ。 「志村さんは最近のテレビ番組を見て『コント番組も時代劇もどんどんなくなって、画一的になってきた』とこぼしていました。 長年にわたって第一線で活躍してきた志村さんは『今のテレビ業界を変えていきたい』という気持ちが芽生えていたようです。 だから自分がまったく新しいことに挑戦することで、化学反応を起こしたいと考えたのでしょう」(芸能関係者) そこには同じく俳優に挑戦した、いかりや長介さん(享年72)の存在もあったのだろう。 かつて不仲が報じられたこともあった2人。 だが昨年4月の『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』(TBS系)で志村さんは「僕の師匠としては間違いなかった」と語っていた。 「最近の志村さんは、亡きいかりやさんについて『何か新しいことに挑戦する気持ちはわかる気がする』と話していました。 そして『俺も(いかりやさんみたいに)賞を狙おうかな』とも。 年を重ねた今の自分だからこそ、できる演技がある。 そしてそれがエンタメ界の未来につながっていく。 そう信じて、志村さんは覚悟を持って取り組んでいたのだと思います」(前出・芸能関係者) 残念ながら、その夢はかなわなかった。 だが出演シーンはすでかなり撮り終えていたものの、訃報を受けて「エール」の公式Twitterはこうつづった。 《志村けんさん、いつまでも新しいことにチャレンジする姿に、みな「エール」をもらいました。 収録したシーンは、そのまま放送させていただく予定です。 謹んでお悔やみを申し上げます》 「女性自身」2020年4月14日号 掲載.

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志村けん

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先日、中居正広の金スマスペシャルに、 志村けんさんが登場されました。 志村けんさんと言えば、小学生時代、 お父さんが非常に厳しかったそうで、 家で勉強をする際に、正座をして頭を下げ、 今から勉強させて頂きますと言うのが日常であったそうです。 金スマでも、紹介されましたが、 志村さんの家庭は、一切、笑いのない家庭であった。 お父さんは、小学校の教頭先生で、柔道は、5段。 冗談は、一切通じなく、恐ろしい存在であったそうです。 そんなお父さんが、ある日、お笑い番組を見て笑った。 それが、お笑いっていいなぁと思った 一番最初のきっかけであったそうです。 その時、志村けんさんは、TVの向こうで、 お父さんを笑わせる人は、凄いなぁと子供心に感じたそうです。 by 金スマでは、志村けんさんが、学校で、ウンチを漏らして、 イジメられたエピソードなども紹介されていました。 だけど、それが、きっかけで、学校で、 ひょうきん者を演じる事になった。 そして、クラスの人気者になった。 この頃から、人を笑わせる事は、楽しいと気づいたそうです。 志村けんさんが中学生の頃、お父さんが、バイクで倒れた。 志村けんさんとお母さんは、倒れた父を見ていた。 その時は、無事であったそうですが、その後、交通事故の後遺症で、 お父さんの様子がおかしくなっていったそうです。 そして、働けるような状態ではなくなり、休職。 家の中は、前にも増して、大変になった。 色々、大変だったようですが、 志村けんさんは、高校3年生になり、 進学か就職かを選ぶような時期になったのですが 志村さんは、お笑いへの道を進みたいと言う 思いが強かったそうです。 幸いにして、その当時は、 雑誌の付録に芸能人の大雑把な住所が出ていたようです。 それを手掛かりに志村けんさんは、 いかりや長介さんの家を探し出し、 いきなり訪ねて行きました。 その時、 いかりやさんの奥さんが出てきました。 いかりや長介さんは、留守だったそうで、 奥様に、いかりや長介さんに 弟子入りしたいと伝えると、 やんわり断られました。 だけど、あきらめきれず、12時間もの間、雪の降る中、 外で、いかりや長介さんの帰りを待っていたそうです。 そして、ようやく対面できたのですが、初対面の印象は、 いかりや長介さんの顔面の迫力に圧倒されたそうです。 そして、付き人をさせてくださいと伝えた。 その時の、いかりやさんの答えは、 今、辞めそうな奴が一人いる。 そいつが辞めたら連絡すると言う事だったそうです。 それから、一週間後、本当に連絡が入り、 後楽園ホールに来いと言われたそうです。 そこで、いかりやさんから伝えられた事は、 付き人が一人辞めたから、お前を雇ってやると言われた。 大喜びした志村さんでしたが、 今すぐ準備して来いと言われたそうです。 だけど、まだ、高校卒業間近で、卒業式も終えていない。 その旨を伝えたら、いかりやさんに怒鳴られたそうです。 何を言っているんだ。 今すぐ準備しろ!と言われ、 その翌日から、ドリフの付き人になったそうです。 当時、ドリフには、三人の付き人がいたそうですが、 その中でも志村さんは、一番下っ端の付き人。 そのような下積み時代があったのですね。 だけど、その大変な時も、楽しんでいたと志村さんは、言います。 志村さんが、付き人を始めてから数ヵ月後。 人気番組、8時だよ全員集合が始まったそうです。 そして、3年ほど経った頃、 志村さんは、付き人同士でコンビを組み、 いかりやさんの許可を得て、 お笑いの舞台に立つ事が許されたそうです。 コンビ名は、マックボンボン。 デビュー1年後には、 レギュラー番組を持つまでになっていた。 そんなある日、母から電話が入り、 父が亡くなったとの連絡が入ったそうです。 享年54歳であった。 病院に駆けつけ、 お父さんに別れを告げた。 しかし、その後、すぐに、 お笑いのステージに立たなければ、ならなかった。 その後も、色々あったそうですが、 ある時、荒井注さんが、ドリフを辞められました。 その時、いかりやさんから話があり、 志村さんに、お前、ドリフの舞台に立てと言われたそうです。 その時の、志村さんは、まさか、自分が、 ドリフターズの舞台に立つなんて夢にも思っていなかったそうです。 付き人からしてみれば、ドリフのメンバーは、みんなが、自分の師匠。 あくまで、自分は、ドリフの傍で、 付き人としてやっていく思いだったそうです。 こうして、志村さんは、ドリフターズの舞台に立つ事になります。 最初の三ヶ月間は、TVのテロップに、 「見習い 志村けん」と出ていたそうです。 最初の頃は、中々、笑いが取れず、空回りしていた。 荒井注さんが抜けた穴が、それだけ大きかったと言う事情もあった。 最初に、志村さんがブレイクしたのは、東村山音頭。 元々、この歌は、志村さんの地元、 東村山にある歌だったそうですが、 志村さんが舞台でやる事によって、 全国的に有名になりました。 それをきかっけに、次々に新しい発想を生み出し、 志村さんが、大ブレイクしたそうです。 いかりやさんは、みんなで作る笑いを大切にされていた。 それだけに厳しくなる事もある、お笑いの鬼であったそうです。 全員集合が16年続いた。 その後、加トちゃんケンちゃんが始まる。 志村さんは、先見の明もあったようで、 ホームビデオの時代が来ると予測して、 周りの反対を押し切って、 カトちゃんケンちゃんに、一般の方からの 投稿ビデオコーナーを設けたそうです。 (当時は、ホームビデオの普及率が、 全国で10%ぐらいのものだったそうです。 ) それも、志村さんの予想通り、大当たりしました。 その後、志村けんのだいじょうぶだぁ、 バカ殿様など、志村さんの冠番組も出来ました。 (バカ殿様には、ビートたけしさんなどの 大物芸人の方も、登場された事があります。 ) いかりや長介さんの息子さんは、 父からよく、志村けんさんの話を聞いたと言います。 いかりや長介さんにとって、志村けんさんは、 特別、気になる存在であったそうです。 いかりや長介さんは、晩年は、俳優としてブレイク。 その後、いかりやさんは、癌で亡くなられましたが、 亡くなる少し前に、志村けんさんの舞台を、 誰にも何も言わずに、自分でお金を払って、 一人で見に来た事があったそうです。 だから、もしかしたら、この時に、ご自分の死期を、 なんとなく、分かっていたのかもしれませんね。 やっぱり、長きに渡り、お笑い界にいた人達は、 みんな凄いなぁって思いますし、 本物のお笑い芸人と言うのは、 根が真面目な人が多いと思います。 志村さんも、いかりやさんも、 ドリフのメンバーも、みんな裏では、 お笑いの事を真面目に考えていたそうです。 お笑いに対する真面目な考え方は、 今も、志村さんの中で生き続けていると思いますし、 いかりやさんも、今も、志村さんと一緒に お笑いの舞台で共に生きていると思います。 志村けんさんの、ご活躍は、 今後も、まだまだ続きそうですね。

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