ゆう十 炎上。 律可の前世(中の人)はゆう十?顔や年齢は?社長との関係は?

木下ゆうかが炎上し嫌いと言われる…元彼氏がはじめしゃちょーと判明し

ゆう十 炎上

東京湾は世界有数の過密航路で、比較的狭い範囲に大型船が密集するために行き交う船舶も周囲に注意を払いながら航行するのが常だった。 その東京湾の中ノ瀬航路を北上する大型船が一隻。 それは当時日本最大のLPG・石油の混載船である第十雄洋丸(43223重量トン)であり、ペルシャ湾からプロパン、ナフサ、ブタン総計5万7千トンあまりを積み込んであと数時間で川崎港へと着岸するところであった。 前年に施行された海上衝突予防法により、500m前方にエスコート船「おりおん1号」を走らせ、久しぶりの日本の土を踏むまであと少しではやる気持ちを抑えながらの航海だった。 実際、港内最大速度12ノットは「おりおん1号」の全速よりも速く、お互いの距離はどんどん縮まっていた。 一方、そのしばらく前に君津港から一隻の貨物船が出航していた。 こちらはリベリア船籍のパシフィック・アレス号(10874重量トン)、鋼材約15000トンを船腹に納め、ロサンゼルスに向かって出航したばかりの船であった。 第十雄洋丸が中ノ瀬航路を航行中、その右舷3キロに接近する貨物船を発見したが、当時まだ航路内だったので舵はそのままにしていた。 一方のパシフィック・アレスも前方に大型タンカーを発見していた……しかし、本船も舵は中央で相変わらず直進するままだった。 実はこの時、パシフィック・アレスは中ノ瀬航路の出口をかすめる位置を通過しようとしていたため、双方の船長に「相手がよけるだろう」という思いこみを起こしていた。 第十雄洋丸は「自分は航路内を航行しているので、相手が回避してくれる」であり、パシフィック・アレス側は「右舷に自船を見る相手側が回避運動をとってくれる」と思っていたため、双方とも舵は中央で回避すべき時期を逃していた。 そして午後1時半頃……双方の船長が危険性に気がついたときにはすでに遅く、双方とも後進全力の面舵をかけていたにもかかわらず、船が効果的な回避運動をとる前にパシフィック・アレスは第十雄洋丸の右舷船首側に食い込むように衝突した。 なお、衝突地点が中ノ瀬航路のほんのわずかに外で、第十雄洋丸自身はまだ船橋を含む後方50mが航路内であったことから後の海難審判ではこの点が重点的に討論された。 衝突によって第十雄洋丸はリザーブタンク後方付近の外板に大破口を生じ、可燃性の強い液体であるナフサは衝突時の衝撃と火花によって簡単に引火し、一瞬にして大爆発を起こすととともに長大な火柱が立ち上り、ナフサを含んだ炎を浴びたパシフィック・アレスも船全体が猛火に包まれ、船上だけではなく船内までも灼熱地獄と化した。 そして、ナフサは海面にも流れだし、海面火災を起こした現場一帯は文字通りの火の海となっていた。 消防船のほか、巡視船艇等12隻の他、東京消防庁、横浜市消防局、民間の港内作業船も出動して消火・救出作業に当たり、炎上する第十雄洋丸の周囲3.6キロは200m以上の大型船舶は航行禁止となり、中ノ瀬航路と浦賀水道は事実上一時閉鎖となった。 第十雄洋丸の爆発は後方には向かわなかったために、衝突時に海へ飛び込んだり、左舷側の救難艇で避難する余裕があった。 そして急いで引き返してきた「おりおん1号」と巡視船に救助されることで39名中34名が助かっているが、正面から可燃物をもろに浴びてしまったパシフィック・アレスの乗員は逃げる暇すら与えられず、船内に閉じこめられたままであった。 周囲の海面すら炎熱地獄とする第十雄洋丸には消防船も簡単には接近できず、消火作業は難航した。 そして、海保の要請によって駆けつけた消防艇は東京消防庁から3隻、横浜市消防局から2隻、川崎市消防局から1隻であった。 しかし、大火災を起こしている大型船にとりついて消火活動を行うには到着時の気象(19時測定、北東の風13m)と海象(波高1.5ないし2m)は50トンほどしかない小型艇には厳しいと判断されそのまま4隻が引き返すことになったのだった。 炎上を続ける2隻はこの北東の強風にあおられて漂流をはじめ、横須賀方面に向かい始めた。 特に消火どころか爆発の危険性がつきまとう第十雄洋丸は動く災害と言っても過言ではないために第3管区海上保安部は両船を曳航し、座礁ないし投錨させる決定を下した。 曳航するには被曳航側に索を取り付けなければならない。 しかし、それは燃えさかる船舶の甲板上で作業を行わなければならないということでもあった。 炎上を続けるパシフィック・アレスも高熱のために消防船も接近が困難な状態であったが、それでも消防船の活動の結果午後7時過ぎになってようやく火勢も収まってきて、船首部分に接舷したタグボートによって曳索が結ばれ、衝突現場から北東に約10キロの川崎沖に投錨させることに成功した。 投錨後、そこでさらなる消火活動を行った結果翌日に鎮火したが、船内を捜索すると船橋は内部まで黒く焼けただれていた。 捜索の結果は28名もの犠牲者が発見され、生存者はわずかに機関室にいて火災に巻き込まれずにすんだ一名のみであった。 そしてもう一方の第十雄洋丸。 こちらの火勢も落ち着いてはきていたが、未だ甲板上は火災が続き、内部に爆発のおそれのある可燃物を大量に抱え込んだタンカーのためにおいそれと近づくわけにもいかない。 これを買って出たのが消火作業に出動していた新日本海運所属のタグボート「大安丸」であり、船長自らが船尾の鋼板に触れて、まだ火災の熱が回ってきていないことを確認すると、乗員2名が甲板に駆け上がり曳索の取り付けに成功した。 第十雄洋丸と曳索でつながれた大安丸と巡視船「まつうら」(328総トン)の2隻によって曳航が始まったが、張力と高熱のためにナイロン製の曳索は途中で切断してしまった。 そのために、今度はもう一隻の大成丸からも応援が来て合計4名が再び上り、再度曳索を取り付けた。 第2回目の曳航は大安丸と大成丸の2隻であり、先導並びに曳航の指揮は巡視船「まつうら」によって行われ、高熱で索が焼き切れることの無いように索には消防船「ひりゅう」によって水がかけられ続けていた。 タグボートの決死の作業により第十雄洋丸は漂流をやめ、船尾を座礁地点に向けて動き始めた。 このとき横須賀までは僅かに1.8キロ。 間一髪で未曾有の2次災害が発生するのを防いだ。 時速500m程度で慎重に行われた曳航により無事に座礁させることに成功し、その座礁地点は千葉県富津沖約9キロ、水深約10mの地点。 そこは砂質の土壌で船底にダメージを与えることもなかった。 双方の船について行われていた行方不明者の捜索は19日までに終わり、人的被害は第十雄洋丸側が死者5人で生存者は34名(うち、熱傷7名)、パシフィック・アレスは死者28人で生存者はわずかに一名のみであった。 目的の地点は野島崎東約200キロの地点。 ここは黒潮の流れからはずれて、海流が安定しているのでここでナフサやプロパンを燃やし尽くす計画であった。 なお、第十雄洋丸の船主でもある雄洋海運も「船体も処分してほしい」との要望があっため、第3管区海上保安本部では第十雄洋丸を沈める方向での検討も始めている。 破損したナフサタンクには化学消火液を注入し、爆発の危険性を未然に予防した上で引き出すこととした。 しかし、離礁させるときのショックで爆発しないとも限らず、その曳きだしには細心の注意が払われた。 引き出しには合計6隻ものタグボートが使用され、引き出す方向である船尾部に4隻、船の安定を期するために船首部に2隻が配され、慎重に引き出された。 まだ中央部から小火災程度の炎を上げるタンカーは引き出し時に左舷側に7度ほど傾いていたのだが、爆発までには至らず太平洋に向けた最後の航海を始めたのであった。 火災はこそ下火になったが、いつまた爆発するかわからない第十雄洋丸を、タグボート群は慎重に曳航していったが、東京湾を抜けて州ノ崎沖に達したときについにおそれていた事態が発生した。 一部のナフサタンクが再び大爆発を起こし、周囲にナフサを飛び散らせるとともに船体全体も再び大火災に陥った。 炎は船内の全タンクに回って、いつさらなる大爆発が起こるかわからない状況となり、これ以上の曳航は危険との判断が決定されて曳索を切り離された第十雄洋丸は再び燃えさかる凶器となって漂流を再開した。 漂流を始めたのは野島崎南南西約40キロ。 そこはちょうど黒潮のど真ん中で、燃えさかる第十雄洋丸は黒潮に乗って3ノット弱の速度で漂流をはじめ、油脂類はまだあと数ヶ月は燃え続けいつ爆発を起こしてしまうかもわからない。 このままでは船舶並びに環境に対してもきわめて危険な存在のままであるために、海上保安庁は第十雄洋丸の処分を防衛庁に要請し、これをうけて防衛庁長官は自衛艦隊へ第十雄洋丸の処分を命じた。 これによって、海上自衛隊始まって以来の武器を用いた災害派遣が実施されることになった。 ……なお、この時の防衛庁長官は十数年後に総理大臣になった(そして2ヶ月で退陣した)宇野長官であった。 しかし、調べれば調べるほど目標がきわめて手強い船であることが明らかになっていった。 船体並びにLPGタンクは強靱な特殊鋼でつくられ、その厚みはタンクで15.5ミリ、船体で20ミリ(護衛艦の外板はおよそ16ミリ厚の高張力鋼)であり、船体とLPGタンクの間にもうけられているナフサタンクはその幅が5mもあり、ここにはナフサが満載されている。 しかも、船体は合計16の区画に分割されて浸水が局限されているだけでなく浮力も大型であり、2mの間隔を開けてもうけられている二重底になった船底部分だけで2万トン近い浮力を有し、また積載している油脂類の比重は0.6で、計算上は積載物だけで3万トン以上の浮きを内部に抱えているようなものである。 3層の複合装甲により、初期の攻撃においては護衛艦の5インチ砲で最大の浮力を有するLPGタンクを打ち抜くのは困難と見られた。 計画ではまず艦砲射撃並びに爆撃でタンクに穴を開け、まずはナフサを、そしてLPGを燃やし、その後魚雷を用いて撃沈処分するという手段をとることになった。 派遣されることになったのは護衛艦はるな、たかつき、もちづき、ゆきかぜ。 災害派遣が命じられた各艦は準備を始め、整備と弾薬等の補給を開始した。 特に呉の水雷調整所では船舶に対して高い攻撃力を有する魚雷の整備と調整が行われていた。 調整されていた魚雷はMk37中魚雷。 海自潜水艦の装備魚雷としてはポピュラーなものであった。 なお、当時は正式化したばかりの72式魚雷があり、超高速で炸薬量も多くさらには磁気信管による船底起爆モードも有しているという、今回のような任務には適した水上艦攻撃専用魚雷であったのだが、導入されたばかりで数も少なく高価、そして性能をマスコミ等に知られたくない等の様々な理由から今回の出動では使用されなかったと推測する。 24日に佐世保から「たかつき」が、呉からは「もちづき」が出撃準備なって出港し、一路横須賀へと急いだのとは別に、25日には魚雷の積み込み作業が完了した「なるしお」も出港し、こちらは現場へと直行した。 この準備・移動期間中も海上保安庁は第十雄洋丸の監視を継続し、海自も厚木から対潜哨戒機を現場に飛ばしてその状況の偵察を逐一行っていた。 横須賀で編成なった水上艦部隊は関係部署との調整とともに作戦会議を開き、最終的な準備を整えると26日に燃えさかる第十雄洋丸を目指して横須賀から出撃した。 現場に接近すると、水平線の彼方に立ち上る黒煙が見え、そしてさらに近づくと時折火柱をあげて燃えさかる第十雄洋丸の姿があり、その周囲に巡視船みやけ(385総トン)、のじま(869総トン)、そして民間の油防除船が警戒並びに監視のために遊弋していたが火災を起こしている大型タンカーと比較するとあまりにも頼りなさげに見えた。 また、海上保安庁の方からも海保側の報道陣を乗せた「いず」(1793総トン)が出航し、海自側の報道陣は「はるな」に乗艦して作戦の成り行きを見守っていた。 観測では右舷側が火災により外板の一部が脱落、そこで派遣艦隊はまず右舷を目標に砲撃を行うこととなった。 使用する武器は各艦装備の5インチ単装砲で、「ゆきかぜ」が3門(旧式の38口径であるMk30)で、ほか3隻は2当時としては新型の54口径のMk42各々2門を有すしていた。 天候は曇り、北風は少々強いが海は穏やかで、視程は20キロ近くあり射撃するには問題のない気象状況だった。 1345 まず、第十雄洋丸の右舷に4隻が単縦陣を組み、同航戦左舷砲戦。 合計9門の5インチ砲が一斉に第十雄洋丸にその鎌首を向け、次々に発砲。 5000ヤードの距離を飛翔した5インチ弾は狙い違わず右舷外板に命中し、そこから火柱が立ち上る。 1405 第一回射撃終了 使用弾数は4隻合計で36発。 1530 処分艦隊は左舷側に移動し、陣形を整えた後で再度発砲。 無傷だった左舷側外板に次々に穴がうがたれてその度ごとに爆発が起こる。 1607 第2回射撃終了 使用弾数は第1回と同じく36発で合計72発の砲弾はそのほとんどが第十雄洋丸の船体に命中したという。 射撃が終了する頃にはナフサタンクに納められていたナフサならびにプロパンが大量に流れ出し、再び大規模な海面火災を引き起こして第十雄洋丸自身もその炎と煙に包まれて姿が見えなくなった。 その火炎は約100m、もうもうと立ち上る黒煙は2500mもの高さにまで達していた。 海面火災が落ち着き、タンカー自身の火災も幾分落ち着いてくると、灼熱地獄の中にその船体を横たえていた第十雄洋丸の姿が再び現れた。 左舷側も右舷と同じようにナフサが流出して燃えさかるようになった結果、傾いていた船体が再び水平近くに戻ってきていたが、船体外板には皺がより強度が低下しているとともに構造そのものにも歪みが生じてきていることが確認された。 この日の攻撃は水上艦艇による2回の射撃のみで終了したが、5インチ砲とはいえ数十発もの砲弾を浴びたにも関わらず第十雄洋丸は燃えさかる事はあれど沈む様子は未だに見えなかった。 しかし、命中弾を出す度に船腹からは炎が吹き上がり、確実にナフサとプロパンは燃え続けてその量を減らし続けていた。 日があけて11月28日。 海象は前日に比べてさらに穏やかでだった。 28日の攻撃の予定は最初に航空攻撃、水上艦、そして潜水艦の順番だったのであるが、呉から駆けつけた「なるしお」が早期に到着したので魚雷攻撃が2番目になった。 最初に高度1500mから急降下し、翼下から火線を吐いた。 その後上空で態勢を立て直すと、次は水平爆撃に移る。 投下された対潜爆弾もその運動エネルギーを貫徹力に変え、ついで発生した爆発により合計30ミリ近い鋼板を突き抜けてLPGタンクに被害を及ぼした。 1020 航空攻撃終了。 使用弾数は対潜爆弾16発に対潜ロケット弾12発が第十雄洋丸に打ち込まれた結果、その命中率はおよそ50%。 前方および中部の上甲板に大穴が開いたため、大量の空気が供給されてプロパンの燃焼もいっそう促進されて火災は一段とその激しさを増した。 しかし、多数の直撃弾を喫しているにも関わらず、その喫水線はむしろ上昇していた。 これは船内のナフサやプロパンが減少している証拠であったのだが、何も知らないものが見ればそれは燃えさかる船が不沈船のように見えたのかもしれない。 風上から射点についた。 その距離は1500m、魚雷による攻撃としては至近距離とも言えた。 「なるしお」が発射する魚雷は、前記のMk37中魚雷。 これは各種のホーミング能力(アクティブ、パッシブ、有線誘導)を持つ魚雷であったのだが、海自が装備していたのは自己誘導のみのMod1ないしMod3だったと思われる。 ホーミング機能は自己誘導だけだったために機関が停止して漂流するだけの第十雄洋丸には使用できず、本来の使用法(そもそも、Mk37は対潜魚雷として開発されたものである)ではない誘導機能を殺した直進航走による射撃を行うことになっていた。 1103 魚雷射撃開始。 第一射は魚雷発射管から勢いよく射出されたのだが、その後に続く推進器の起動に伴う航走音がどの艦のソナーにも聞き取れない。 その魚雷は呉の調整にもかかわらず自走装置に不具合を起こし、走り出すことはなく海底に没した。 再度発射された第二射はその推進器音がソナーに捕らえられて乗員たちを安心させると、それからまもなく命中音がし、知覚できないほどのわずかな時間をおいて炸裂音が響く。 見事側面に命中し、解放された150キロの炸薬による爆発は30mもの水柱をあげ、同時に発生した200m以上もの火炎は艦艇乗員に魚雷の威力をまざまざと思い知らせた。 続いて発射した第3射も命中。 前回と同じように水柱と火柱が立ち上った。 しかし、船尾の機関室を狙った第4射は深度設定を誤ったのか、それともえぐれたカットアップ部分を通過したのか空しく船底を通過したのみであった。 目標を見失った魚雷は2万mほどを疾駆した後にバッテリーがつき、そのまま海中深くに没した。 1318 魚雷攻撃終了。 半数の命中ながら、船腹で炸裂した魚雷は中央部のプロパンタンクを破壊し、破口からナフサとプロパンが流出して再び大規模な海面火災とともに再び第十雄洋丸は炎の中に消えた。 その後姿を現した第十雄洋丸は外見上は変化無くただ炎と煙を吹き出して浮いているだけであった。 しかし、「なるしお」のソナー員は第十雄洋丸の船体がきしんだ音をはっきりと捕らえている。 この時、再び魚雷攻撃を行う案も出ていたのだが、射撃準備の終了した艦を再び待避させるには時間がかかり、魚雷を発射可能になるのが夕暮れ時になってしまうために現状通り水上艦による射撃が続行された。 1512 第3回射撃開始。 右舷のゆきかぜから射撃を開始し、ついで左舷側の艦が砲弾を撃ち込んでいく。 前日と比べて命中音が変化していた。 それは外板およびタンクの鋼板が熱によって強度を失い、そして砲弾の運動エネルギーの大部分を減殺していたナフサが流れていたためであり、LPGタンクに直接砲弾が撃ち込まれている事でもあった。 1616 第3回水上射撃終了。 流れ出るLPGに三度の大海面火災。 水上艦部隊は第十雄洋丸の周囲を周回、「なるしお」は潜行して警戒を続けていた。 あまりの不沈性に自衛艦隊司令部も焦りを見せ、呉で待機中だった「はるしお」に出動命令を下し、その日の夕方に「はるしお」は出航した。 しかし、「はるしお」の出航から間もない、1800になる少し前から動きが生じはじめた。 それまでまるで不沈船のように燃えつつもどっしりと浮いていた第十雄洋丸が急に爆発の回数を増し、船尾は後部甲板まで急速に沈み込んだ。 事態の急速な推移に各船の甲板上は乗員たちが鈴なりとなり、水中に没していた「なるしお」も急速浮上、その成り行きを見守った。 そして3番、4番LPGタンク付近から大爆発が発生し、その火柱は300mもの高みに登った。 続いて2番LPGタンクも爆発。 それはまるで最後の断末魔のようにもみえ、その時にはすでに煙突とブリッジは水没し、縦傾斜を増すと共に船体と一緒に炎も海に海に飲み込まれているかのようだった。 船首を天にたてるように屹立すると、そのまま大渦を周囲に残して沈み込んだ。 1847 衝突から20日。 その間ずっと火炎を噴き出し続けていた第十雄洋丸はついに炎を吹き出すことをやめ、太平洋の海底6000mに深く没していった。 昼間の地獄の現出のような光景は消え失せ、ただ十四夜の月の光が海面に浮かぶ薄い油の幕を照らしているのみだった。 その位置は北緯33度40分、東経145度55分。 沈没確認後、旗艦「はるな」から速報が飛び、関係者を安堵させた。 艦隊からは「悲しみの譜」がラッパで吹鳴され、乗員達は「船乗り」として一隻の「船」の最後を看取ったのであった。 警戒の巡視船を残し、海上自衛隊の処分部隊は汽笛長一声、自らが沈めた船に別れを告げて帰るべき港に舳先を向けた。 その後、現場海面は薄い油の帯が漂うだけで大規模な燃料油流出もなく、巡視船と油処理船も後にした現場はただ広大な海原のみが広がっているだけだった。 第十雄洋丸への曳索の取り付けが民間船の乗員の勇敢な行動によって行われたという教訓は、その後特殊救難隊の創設という形で結実した。 また東京湾を行き交う1万トン以上の船舶には水先案内人の乗船を義務づける(それまでは横須賀など主要な港での制度でしかなく、東京湾においてはそれまでは任意水先だった)ことや東京湾交通センター(観音崎)の設置などソフト面、ハード面でも事故の教訓は生かされることとなった。 時は流れ、平成8年2月9日、五島列島近くの東シナ海を航行していたパナマ船籍のタンカー「サニー・ブリーズ」(2,635総トン)にて火災事故が発生した。 このタンカーにはジェット燃料等4,000tを積んでおり、第十雄洋丸の時ほどではないものの、やはり爆発の危険をはらんでいた。 だが、当時と大きく異なる点として、事故発生が外洋であり、しかも荒天下の漂流であった。 小さなタンカーだが、荒天下での漂流は沿岸部にとって被害が生じる可能性があるので、万が一に備えて海上保安庁から防衛庁に災害派遣の要請がなされ、20年前と同じように処分のための艦隊が編成された。 指定された護衛艦は「くらま」「やまぎり」「さわぎり」であり、さらに2隻、護衛艦「はるな」と特務艦「もちづき」。 奇しくも20年前とおなじ艦がその中にいた。 しかし、海上保安庁も手を打ち尽くして海自による撃沈を見守るだけだった第十雄洋丸事件当時から大幅な成長を見せていた。 当時の教訓から編成されていた特殊救難隊が水中から接近。 海上自衛隊が見守る中、船底にワイヤーを取り付ける事で曳航を可能とた。 五島沖の領海外まで曳航されて積載していた油を燃やし尽くしたサニー・ブリーズは船体が二つに折れて沈んでいった。 これにより、再度の海上自衛隊による砲撃処分は幻と終わったのであった。 なお、昭和49年当時は海上自衛隊による実弾を用いた災害派遣についてはそこまで大きい報道はなされていなかった。 今ほど自衛隊が注目されていなかった為かもしれないがこれは第十雄洋丸炎上事件の間に国鉄・私鉄ストライキとそれに伴う超過密ラッシュ、フォード大統領来日、田中角栄総理大臣の退陣劇などの大型事件が立て続けに発生していた為なのかもしれない。 参考資料:丸、世界の艦船、当時の新聞、国会議事録、海難審判裁決文.

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第十雄洋丸事件(だいじゅうゆうようまるじけん)とは?1974年東京湾で起こった大型タンカー炎上事故のwiki情報や概略は?奇跡体験!アンビリバボー

ゆう十 炎上

また、原曲をpiano. verとしてアレンジしていることが特徴的で、歌ってみた動画の中でも自身の声とピアノアレンジというシンプルな内容ながら、そのクオリティの高さから多くのファンを獲得しています。 動画を投稿し始めたのは2010年からで、初めての動画投稿はニコニコ動画でのボーカロイドオリジナル楽曲「rain stops,good-bye」でした。 しかし、この動画はゆう十 歌い手 本人がそのクオリティに満足できず、数日後に削除してしまいます。 初めての動画投稿でも、自分が納得できない時は潔く削除するというプロ意識が既にありますよね。 その後、ニコニコ生放送で弾き語りをしながら、歌ってみた動画の投稿も続け、当時流行っていた「ローリンガール」のpiano. verでランキング最高3位に入り注目を集めました。 この頃からボカロPとしての活動も並行しているようです。 2011年からは様々な人気の歌い手とコラボし、ニコニコ動画主催のライブイベントにも出演するようになり、一気に人気と知名度を高めました。 そして、2014年には1stアルバム「utopia」でメジャーデビューを果たしました。 このutopiaは大人気声優の梶裕貴さんとのコラボや、アジアの歌姫の呼び声高いテレサ・テンさんと名曲「時の流れに身をまかせ」を仮想デュエットしたり、多くの反響を呼びました。 スポンサーリンク ゆう十 歌い手 の顔バレ画像はイケメン? 大人気声優や大御所歌手とデュエットするほどの実力派アーティストのゆう十 歌い手 は、メジャーデビューして以降はメディアに顔を出しているようです。 さらに、ネット上ではその公開された素顔がイケメンだという噂があるようなので、ゆう十 歌い手 の顔がハッキリ分かる画像を詳しく調べてみました。 アイドルのような美青年というタイプではありませんが、ファンからは30代という年齢に相応しい年上の包容力がありそうなイケメンだという声が多いですよ。 歌い手出身のアーティストはイラストと実際の姿が違うことが多々ありますが、ゆう十 歌い手 に関してはトレードマークのハットがイラストでも書かれていて、本人とのギャップがほとんどないのも特徴的ですね。 ゆう十 歌い手 は中国でも人気? ゆう十 歌い手 の素顔や経歴を見ると国内での人気も相当ですが、実は中国からも熱狂的な支持を集めていることはご存知でしたか? きっかけとなったのは、デビューアルバムで中国出身のテレサ・テンさんとの仮想デュエットだったようです。 また、メジャーデビューしてから6年以上も最前線で活躍しているゆう十 歌い手 ですが、これまでに中国や台湾といったアジア圏でも積極的にライブイベントに出演しています。 それらの影響で、ゆう十 歌い手 が投稿した歌ってみた動画には中国語の字幕がつけられていたり、中国のネット上でファンサイトも作られています。 日本のアーティストは海外に進出しても苦戦する人たちが多い中、ゆう十 歌い手 が中国からこれだけ人気なのは、本人の歌声はもちろんのこと、海外のファンも大切にする真摯な姿勢が認められている証拠ですね。 中国語で、ゆう十 歌い手 は「优十」と書くそうなので、中国のファンサイトを閲覧したり中国のファンとの交流をしたい方は是非検索してみてはいかかがでしょうか。 スポンサーリンク ゆう十 歌い手 のオススメの楽曲は? これまで人気アーティストゆう十 歌い手 についてご紹介してきましたが、そろそろ実際に彼の楽曲を聴いてみませんか? ゆう十 歌い手 の魅力が詰まったオススメの曲を何曲かピックアップしてみましたよ。 夜明けと蛍 歌ってみた! 中国のネットシーン発のアーティスト筷子兄弟の「小苹果」という楽曲を歌ってみた動画です。 ライブイベントを通じて交流を深めた中国人ファンのために歌ってみた動画で、初めての中国語の楽曲にも関わらず滑らかに歌いきっています。 そんなゆう十 歌い手 に、動画のコメント欄ではファンから賞賛され、中国での高い人気が伺えますよ。 スポンサーリンク ゆう十 歌い手 は結婚している? ネットシーンからメジャーデビューも果たし、イケメンな素顔も明らかになったゆう十 歌い手。 そんなゆう十 歌い手 には結婚しているという噂があるようなので、詳しく調査してみると、信憑性のある情報は無かったので結婚はしていないのではないでしょうか。 TwitterなどのSNSでもあまりプライベートについて話すことがなく、特に恋愛関係に関してはまったくと言っていいほど発言がありません。 しかし、2020年現在の年齢は38歳のゆう十 歌い手 なので、公表していないだけで結婚していたり、彼女がいるのかもしれませんね。 ゆう十 歌い手 の炎上歴は? 国内外から人気を集めるゆう十 歌い手 に炎上歴はあるのでしょうか? ゆう十 歌い手 は2010年から歌い手として活躍し始め、2014年からはメジャーデビューも果たし、10年以上も音楽活動をしています。 そのキャリアの中で、これといった大きな炎上騒動は起こしていないようです。 ネット上では、過去に投稿した動画のコメント欄でファンとアンチが争ったという噂もあるようですが、その真偽も定かではありません。 人気の歌い手やアーティストは過去に炎上を起こしたりしていることも珍しくありませんが、ゆう十 歌い手 は年齢が高いということもあって落ち着いているのでしょうね。 bs-log. 名前:ゆう十 ゆうと• 本名:非公開• 性別:男性• 生年月日:1981年11月10日生まれ• 年齢:38歳• 血液型:A型• 身長:178cm• 体重:非公開• 出身地:東京都• 事務所:UNIVERSAL MUSIC JAPAN ゆう十 歌い手 の顔バレ画像は?結婚や炎上歴も気になる!まとめ ここまで人気アーティストゆう十 歌い手 について、結婚や炎上歴から、イケメンと噂される素顔について詳しく調査してきました。 2020年現在の年齢が38歳ということも結婚していても不思議ではないものの、結婚や恋愛に関する情報は見当たらないため、独身という可能性が高いのではないでしょうか。 炎上についても、年齢が他の人気歌い手に比べて上だということもあり、問題行動は起こしていませんでした。 素顔は噂通りの優しそうなイケメンで、これからの更なる活躍に期待ですね! スポンサーリンク.

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木下ゆうかが炎上し嫌いと言われる…元彼氏がはじめしゃちょーと判明し

ゆう十 炎上

アンビリバボー 番組概要 大型タンカー炎上事故! 東京湾沿岸に壊滅の危機! ついには自衛隊が出動し史上で唯一の実弾使用作戦に! 第十雄洋丸事件とは 「第十雄洋丸事件」は海上自衛隊が発足以来、唯一、実践に向け攻撃を加えた 「災害派遣」として知られています。 wiki情報 第十雄洋丸事件 日付: 1974年(昭和49年)11月9日 時間 :13時37分頃(JST) 場所 :千葉県木更津沖の東京湾内 死者・負傷者:33名死亡、7名負傷 事件概要 第十雄洋丸事件が発生したのは、1974年。 発生場所は間20万隻以上の船舶が行き交う東京湾でした。 鋼材を積んだリベリア船籍の貨物船 「パシフィック・アレス」が全長227mのタンカーでプロパン、ナフサ、ブタン、液化石油ガスなどを積載した 「第十雄洋丸」の右舷船首側に突き刺さる形で正面衝突。 第十雄洋丸は当時、日本最大級のタンカーで、積載していた「ナフサ」は爆弾にも使用されるほどの爆発力と燃焼力を持つガソリンのようなもの。 衝突と同時に、大きな爆発が起こり、一瞬で猛火に包まれました。 海上保安庁の消防船・巡視船のほか、東京消防庁、横浜市消防局が消火活動に当たりますが日が暮れるにつれ風が吹き、炎上した2隻が浅瀬に向かって漂流し始めました。 浅瀬に乗り上げると、更にタンカーが入り大きな爆発を引き起こし、川崎市が焦土化する恐れがあったため何とか食い止める必要がありました。 海上保安庁はパシフィック・アレスを引き離し何とか消火に成功。 未曾有の非常事態に民間の大安丸や大成丸なども協力し、2つの船の乗組員たちは、何度も危機を乗り越え、ロープを取り付け無事に富津沖へ移動させることに成功しました。 この時点で、事故発生から10日後。 しかし、事態は収まったわけではありません。 勢いよく燃え続け、漂流する第十雄洋丸。 放水を続けますが炎上はなかなか収まりません。 養殖業者などが沿岸で漂流し続けることに反発したため、太平洋上まで運び、そこで燃やし尽くす作戦を取りました。 しかし、ナフサが大爆発し、船の全タンクに回り、再び大炎上、黒潮の流れにのって漂流する事態となってしまいます。 海上保安庁は甚大な災害として「第十雄洋丸」の大破を求めて自衛隊の出動を要請しました。 海上自衛隊史上、初めて武器を用いた災害派遣が実施されました。 護衛艦「はるな」「たかつき」「もちづき」「ゆきかぜ」、潜水艦「なるしお」そしてP-2J対潜哨戒機が出動し、撃沈処分が計画されました。 ターゲットは船内の大きなタンカーで、海上自衛隊は最初にナフサのタンクを破壊し、上空から爆撃で穴を開け、最後に魚雷を発射して処分するという方針で動きました。 この事件は第十雄洋丸側で死者は5名、生存者は34名、正面からナフサを浴びたパシフィック・アレス側は死者28名、生存者1名という大惨事となりました。 この事件がきっかけで羽田特殊救難基地の前身となる「特殊救難隊」が創設されるきっかけとなったそうです。 中村悌次 wikiプロフィール 名前:中村悌次 読み方:なかむら ていじ 中村 悌次は、日本の海軍軍人、海上自衛官。 海軍兵学校卒業。 第11代海上幕僚長。 京都府出身。 ウィキペディア 生年月日: 1919年9月24日 生まれ: 日本 京都府 死亡: 2010年7月23日 書籍: 生涯海軍士官: 戦後日本と海上自衛隊、 中村悌次・オーラルヒストリー: 元海上幕僚長 中村悌次 なかむらていじ さんは第十雄洋丸事件時の自衛艦隊司令官でした。 第十雄洋丸事件について記した本も出版されています。 第十雄洋丸事件 参考文献 ・ Amazonで探す>>> 楽天で探す>>> Yahooで探す>>> 第十雄洋丸事件 ツイッター 情報 1974年、昭和49年11月9日 第十雄洋丸事件 東京湾でタンカー「第十雄洋丸」が衝突事故を起こし炎上。 これに対し海上保安庁は防衛庁に海上処分を依頼し、防衛庁長官は自衛艦隊司令部に当船海上処分を命じた。 — JS. しかし、この海難事故と海上自衛隊の活躍については、2018年現在でも海上自衛隊内で、語り継がれています。 こちらでは爆発原因は不明、A-10から投下したニトロの爆風で消火してたけど。 事故発生から10日後、ナフサ流出。 爆発消火か? 事故から2週間後に艦砲射撃。 それでも沈まないので20日後、魚雷攻撃か。 — 黒卵(コクラン) kokuran73 【関連記事】.

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