東京 スタジアム 座席 表。 【ラグビーW杯 全会場シートマップ!】全12スタジアムの座席表を見つける方法(9/23:開幕戦の写真を一部追加)

味の素スタジアム(味スタ)|座席の基本情報と口コミ|FC東京のスタジアムガイド

東京 スタジアム 座席 表

この記事では味の素スタジアムでライブがおこなわれる時の、スタンド席の座席表の解説とステージの見え方について解説していきます。 アリーナ席の情報については• を参考にしてください。 味の素スタジアム 座席表 まずは味の素スタジアムの座席表をご覧ください。 ライブ初心者の方の為に解説しておくと、アリーナ席は普段競技が行なわれる場所に、仮設で作る席の事を言い、スタンド席は競技を観戦する席の事を言います。 味の素スタジアムでライブを行なう場合、ステージを南側(座席表の右)に設置して、会場を縦長に使うのがスタンダードなパターンです。 稀に会場を横長に使い、東側(座席表の上)にステージを設置するケースもありますが、今回はこの座席表をメインに話をしていきます。 味の素スタジアム スタンド席の指定方法 味の素スタジアムのライブ時のスタンド席は• エリアの指定(入り口番号)• 席番号 この4つで指定されます。 階層 味の素スタジアムでは1階席を下層スタンド、2階席を上層スタンドと表現しています。 座席表では分かりやすくする為に、分けられていますが、下層スタンド後方と上層スタンド前方は微妙に覆いかぶさっている部分があります。 因みに下層スタンド最前列から上層スタンド最後列付近の高さの差は26mほどあります。 エリアの指定 味の素スタジアムではスタンド席を大きく分けて• バックスタンド• 北サイドスタンド• メインスタンド• 南サイドスタンド の4つに分類しています。 この4エリアはそれぞれの頭文字をとり、B,N,M,Sの4つのアルファベットで指定されます。 入り口番号にはM11などのように、頭にこのアルファベットが書かれているので、これで大体の座席の位置が分かる事になります。 (座席表の黒丸の数字が入り口番号です) 因みに、このステージ配置ではステージの真後ろにあたる、南スタンドは使用する事はありません。 仮にこのチケットが出回っている場合は、バックステージ(ステージの裏側)として特別席のケースか、ステージをバックスタンド側に設置している可能性があると思ってください。 列 次に見るのが列です。 アリーナ側から後方へ向かって数字が増えていきます。 場所により少ない場所もありますが、下層スタンドでは1-31列、上層スタンドでは1-19列の列がありますね。 因みに上層スタンドは4列目と5列目の間は通路になっていて、先ほど話したように1-4列目付近は下層スタンドに覆いかぶさるようにはりだしています。 席番号 最後に席を決めるのが席番号ですね。 席番号はそれぞれのエリアで半時計周りに数字が増えていきます。 バックスタンドでは数字が小さい程ステージに近く、メインスタンドでは数字が大きい程ステージに近いという事ですね。 因みに、ステージの真横になる場所は解放されないケースが多いです。 バックスタンドで言うなら1~100番台付近ですね。 スタンド席からステージの見え方 では、最後に重要なスタンド席からステージの見え方について解説していきましょう。 このサイトでは公式サイトの情報などを元に距離を計算して、見え方について解説しています。 算出する距離はあくまで目安ですので、参考程度に考えてください。 まず、味の素スタジアムのアリーナ部分の広さです。 横189. 4mで縦121. 3mの距離がありますね。 これを元にステージからスタンド席までの距離を計算していきます。 まずは、 北サイドスタンドの最前列部分までの距離です。 こちらは約155m程の距離があります。 次に 上層スタンド最後列までの距離ですが、こちらは203mもあります。 しかも冒頭の方で話したように、上層スタンド最後列は26m程の高さもあります。 200mの距離が想像出来ない方もいるかもしれませんが、イメージとしてはマンション66階付近から下の人を見るようなイメージです。 到底肉眼で人の顔をしっかり判別する事も難しい距離ですね。 イメージ出来ない方は• も参考にしてください。 では、バックスタンドはどうでしょう? 下層スタンド240番付近の距離を計算してみました。 まだ遠いですが、 83m程の距離まで近づきました。 これはメインスタンド下層スタンド240番付近でも一緒の距離ですね。 味の素スタジアムは、アリーナ部分が広いだけに、どうしてもスタンド席はステージとの距離がでてしまいます。 ただ、下手にアリーナ席の後方より、スクリーンや演出など全体的な演出はスタンド席の方が、見やすいかもしれませんね。 以上味の素スタジアムのスタンド席の座席表と見え方についての解説でした。 ライブでお出かけの際に参考にしてください。

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東京スタジアム

東京 スタジアム 座席 表

歴史 [ ] かつて東京スタジアムがあった荒川区南千住には、に操業を開始したがあった。 同工場は戦後は民間に払い下げられ、が所有する生地工場となったが、に入ると業績が悪化。 として使用していたの枯渇や様々な規制、の慢性化などによって経営難に陥り、に閉鎖された。 工場跡地の一部は(名鉄)が取得し、「」の建設用地として使用することが計画されていた。 なお、「明治村」はその後、に建設された。 一方、当時のは(巨人)、、毎日大映(大毎)オリオンズの3球団がを本拠地としていたため、日程の過密化が常態化していた。 このうち大毎のオーナーだったは私財を投じて自前の本拠地球場の建設を計画。 都内各所を自ら視察した結果、一度は深川の東京ガス運動場を建設地とする案が有力だったものの直後に破談となり、改めて南千住の大和毛織工場跡地を建設地に決定した。 かねてから「に自前の球場を造りたい」と漏らしていた永田は工場閉鎖前からこの地を視察で訪れており、水面下で用地取得を画策していたと言われている。 当時の大映は産業の斜陽化などで経営難に陥りつつあったが、永田は用地を取得し、建設工事は7月に着工。 わずか1年足らずのに竣工し、「東京スタジアム」と命名された。 、全6球団がスタジアムに集結。 午後4時から盛大に開場式を執り行い、永田は席上で「皆さん、パ・リーグを愛してやって下さい! 」と満員(35,000人)に膨れ上がったスタンドに向かって絶叫した。 「大リーグのボールパークのような最先端の設備を有しながら、庶民が履きで気軽に通えるような球場」という永田の壮大な構想が具現化した、彼にとってはいわば「夢の野球場」だった。 初のプロ野球公式戦は同日午後7時試合開始の大毎オリオンズ対7回戦で、球場第1号本塁打は同試合でが放った。 こうして東京スタジアムは「最新のプロ野球専用球場」として開場した。 オリオンズ以外にも、1962年と1963年のおよび1964年以降の国鉄スワローズ(後のサンケイ、ヤクルト)も、本来のがであり、優先の関係で、などごく限られた機会で本球場を利用したことがある。 また、など他の球団の主催公式戦も不定期で開催されていた。 永田はさらにのシーズンよりオーナー企業名を排して都市名を冠した「東京オリオンズ」に改称。 しかし、当時のオリオンズは低迷期で、開場年の1962年は4位。 以降5位、4位、5位、4位、5位と苦戦していた。 また、当時は巨人が黄金期()を迎えていたこともありプロ野球人気はセ・リーグ偏重の傾向が強まっていた。 年間観客動員数も開場初年度こそ70万人を突破して盛況を見せたものの、その後はジリ貧に陥り、スタジアムの建設費を減価償却できない経営状態が続いた。 なお、の最終戦はとので、両試合とも観客が200人だった。 、菓子メーカーのを冠スポンサーとし、「ロッテオリオンズ」に改称。 、10年ぶりのリーグ優勝をこの東京スタジアムで決めた試合終了の直後、観客やファンがスタンドから次々とグラウンドに乱入するや、選手に先立って永田を胴上げ。 さらに「」の歌声が夜空にこだました。 翌、大映は球団の経営権をロッテに譲渡し、本社の経営再建に乗り出すものの倒産。 関連子会社の東京スタジアムも累積赤字が約15億円にまで膨らみ、経営権は1972年に社主のの手に移った。 だが小佐野は「このまま貸し球場として所有していたのでは採算が取れない。 球団と球場は一体的に運営するのが理想」として、ロッテにスタジアムの買い取りを求めた。 しかし、ロッテはこの案に難色を示し、賃借契約の継続を要請。 スタジアムの使用を巡る交渉は終始平行線を辿った。 結局、の段階で交渉は事実上決裂。 小佐野は「球場は廃業するので、来季以降は使用できない」とし、東京スタジアムは同年限りでの閉鎖が決まった。 開場からわずか11年目のことだった。 同年、ロッテの主催公式戦の観客動員数は年間65試合で31万人にとどまっていた。 最後のプロ野球公式戦はの対戦だった。 本拠地を失ったロッテは翌から1977年まで、の を暫定本拠地とし、からに落ち着くまでの間、首都圏(後楽園、、川崎)や()などを転々としながら主催試合を開催していた。 なおこの間、にはリーグ優勝し、も制して日本一にも輝いている(この間のロッテについてはを参照)。 主を失った東京スタジアムが閉鎖された後、1973年には法人格としての株式会社東京スタジアムも解散した。 同年末にが土地および施設を取得。 「オリオンズが帰ってくる」と囁かれたものの、これも頓挫。 その後1977年3月に東京都が跡地を取得し、4月からスタンドは解体された。 跡地は大半が荒川区の管理する「」となっており、体育館や軟式野球場などがある。 一部は移転したと都民住宅の敷地となっている。 光の球場 [ ] 東京スタジアムの設計のモデルとなったのはのにあり、かつての本拠地だった で、場内に設けられた6基の照明塔は当時日本では一般的だった送電塔のような無骨な鉄骨作りではなく、2本のポール型鉄塔がサーチライトを支えるという当時としてはモダンな構造だった。 二層式の内野スタンドに設置された製のは、エリア別に青(外野席と一・三塁側内野自由席)、黄(一・三塁側内野指定席B)、赤(年間指定席を含む内野指定席A)に色分けされ、シートピッチが広く取られていたため「ゆったり座れる」と評判だった。 1階スタンドと2階スタンドの間には、日本の野球場では初の席が67席(うち1、ゲストルーム4)設けられた。 スコアボードにはが出ると「HomeRun」と書かれた電光看板が点灯する演出もあった。 また、スコアボードに設置された大時計は当時としては画期的な式であった。 フィールドは外野だけでなく内野のインフィールド部分にも天然芝が敷設され、ファウルエリアは球場敷地が狭隘なためやや狭く、内野フェンスも低かったが、「選手がすぐそばに見える」と観客には好評だった。 エントランス部には式の通路を採用し、観客を地平部からスタンド下の通路に直接誘導する手法が用いられた。 これは観客と選手、関係者の動線を分離してスムーズな入退場が行えるよう配慮して設計されたものだが、現在で言うところのにも通ずる概念であると評価する向きも多い。 開場前の1962年、夕方から雨中で行われた照明設備の点灯テストで、当時としては高照度の1600lxの灯に照らされたスタジアムを見て、永田オーナーは記者陣を前に「どうだ。 これだったら後楽園球場もビックリだろ」と高らかに笑って見せたという。 永田は当時セ・リーグ、とりわけ巨人に対して強烈なライバル意識を持っていた。 その一端を示す事柄として、他のセ・リーグの首都圏球団である国鉄(後にサンケイ、ヤクルト)や大洋には東京スタジアムでの主催試合開催を許可したものの、最も収益が期待できるはずの巨人にだけは、基本的に最後までスタジアムの貸出を拒否し続けたということが挙げられる。 スタンド下には選手用の設備が充実していた。 内野スタンド下に設けられた幅約6mで2人が同時に投球できる屋内ブルペン をはじめ、ダッグアウト裏にもトレーナー室や医療室など諸室が整っていた。 最も好評だったのはロッカールームで、当時オリオンズに在籍していたは「それまで(後楽園など)は隣の選手と身体をぶつけながら着替えていたが、東京球場ではのんびり椅子に腰掛けることもでき、隣席のと小遣いを出し合ってを置いて、試合後に火照った身体を癒すやがおいしかった」と振り返っている。 また、選手専用の食堂も広く取られ、内装もよく、メニューも充実していたため、選手からは「銀座の一流料理店みたいだ」と評判が高かった。 これらの諸室は現在では多くの本拠地球場で整備されているが、このような大リーグ式の環境に当時の選手、特に設備の大きく劣る球場が多かったパ・リーグの他球団の選手からは大喜びされていたという。 また、開場当時の外野フェンスはコンクリート製であったが、選手が激突して負傷する事故が起きたため、1966年3月に日本の球場では初となるラバーフェンスが導入された。 しかし、前述の通り敷地が狭隘であるため、フィールドは狭かった。 で定められた広さ を無視して設計された両翼90m、中堅120mのフィールドは当時の後楽園球場(公称値)と同じだったが、左中間および右中間が一直線で膨らみが全くないため、「本塁打量産球場」とも揶揄され投手には不利な野球場だったが、永田は「打たれたらその分、ウチ(オリオンズ)が打ち返せ」と意に介さなかった。 その中で、その狭隘さをものともしなかった投手がだった。 小山は「針の穴を通す」と評される抜群の制球力が持ち味だったが、秋にとの交換トレードで阪神タイガースからオリオンズに移籍した当初、周囲からは「狭い東京球場に移る小山が圧倒的に不利」と懐疑的な評価が下された。 だが、小山は狭隘な東京スタジアム対策としてを駆使し、移籍初年度の1964年に30勝を挙げて同年パ・リーグのに輝くと、1973年に大洋に移籍するまでオリオンズのエースとして活躍した。 当時の南千住にはなどのはなく、低い平屋や二階建ての住宅が建ち並ぶ下町の街並みに忽然と現れた巨大なスタジアムから、夜になるとナイター照明が放つ光が周辺に瞬く光景からしばしば「 光の球場」 とも形容されていた。 しかし、一方でナイター終了後に照明が消えるとが一斉に周辺の民家になだれ込んだため、一種の公害にもなっていた。 多目的球場 [ ] 東京スタジアムにはこの他、左翼スタンドから三遊間後方に掛けての地下にはも併設されていた。 シーズンオフには内外野のスタンドの椅子席の上にを設置、巨大な屋外スケート場となっていた。 開場当時は「球場の地下にを引っ張って来たい」「や、も併設して総合レジャー施設にしたい」などといった壮大な構想もあったが、これらは実現には至らなかった。 しかし、東京スタジアムの先駆的な設計手法は後に日本全国で建設された野球場の設計に多大な影響を与えている。 スケートリンクはグランド上にフィギュアリンク、スタンド上に400mの周回路が作られ、400m周回路のみスピードスケート靴の滑走ができた。 フィギュアリンクはフィギュア、ホッケー、ハーフスピードの靴でのみ滑走可能だった。 なお、このため毎年春と秋に行われるオリオンズの練習は、スケートリンクのやぐらの下でランニングやキャッチボール程度の軽いものしか行えなかった。 主なエピソード [ ]• 開場式当日、場外には入り切れなくなった観客が溢れ返っていた。 これは後に発覚したことで「球場開きに観客が少ないのは恥ずかしい」と関係者らが球場周辺に約15万枚の無料入場券を配布していたことによるものであった。 1971年夏、は本球場での試験販売を行ったが、これはで初めてカップヌードルが販売された場所であるといわれている。 本球場竣工の翌年(1963年)に竣工したののメインスタンド入口は本球場と同様に地平部とスタンドとをスロープで連絡する方式が採用されているが、設計段階で本球場を意識したものであるか否かは不明である。 醍醐猛夫が在籍した当初、手書きパネル型のスコアボードでは「醍醐」の文字の画数が多く見づらくなるということを考慮し「ダイゴ」とあえてカタカナで書いたことがあった。 夏場には旧が本球場で興行を行っており、がとシングルマッチ初対戦を行ったのは1970年9月5日の本球場での興行であった。 施設概要 [ ]• 敷地面積:34,321m 2• グラウンド面積:12,180m 2• 両翼:90m、中堅:120m• 内野:クレー舗装及び天然芝(ティフトン)、外野:天然芝(高麗)• 照明設備:鉄塔6基• 収容人員:35,000人(公称)• スコアボード:パネル式。 イニング表示は10回までで、得点・安打・失策数の表示あり。 両サイドに横書き・縦スクロールによるメンバー表記(一塁側は選手名の右側に守備位置を表記。 また、球団名が「ロッテオリオンズ」になってからは「ロッテ」のチーム名表記はロッテの企業ロゴを真似たものとなった)。 スコア下部はカウント・ジャッジを挟んで他球場速報やアマチュアで複数の試合が開催された場合の試合結果を表示できる掲示板があった。 また上部には右端にデジタル時計、その左側に本塁打が出た場合の電飾看板が設置されていた。 審判は左右広告部のそれぞれ下段に3名ずつ(左側 - 主審および一・二塁塁審、右側 - 三塁塁審および左・右線審)表記された。 当時の交通アクセス [ ]• ・から徒歩約8分• ・南千住又はから徒歩約7分• 都電21系統(千住4丁目 - 水天宮前)• 都電27系統(三ノ輪橋 - 赤羽)現在の• 都電31系統(三ノ輪橋 - 都庁前)• 又はから徒歩約5分• この他、スタンド前のエントランス広場はの折返場となっていた。 東京スタジアムが舞台となった作品 [ ]• - 第11話「先輩後輩」で、場外でロケを実施。 - 第35・51話のロケで使用。 後者では「東亜スタジアム」の名が使われている。 - 生徒たちが暴力追放集会を行うシーンで使用。 - 本球場を舞台とした「光の球場! の巻」を第82巻に収録。 でも「光の球場」が放送された。 参考文献 [ ]• 『プロジェクトX 挑戦者たち 起死回生の突破口 魔法のラーメン 82億食の奇跡 カップめん・どん底からの逆転劇』((2002年5月30日刊行本が底本)、NHKプロジェクトX製作班編、日本放送出版協会、2004年3月9日) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 1973年は保護地域が東京都のままだったため準本拠地扱い。 現在の呼称は「楽天生命パーク宮城」(本拠地)• その後、のとの兼用を経て - までは49ersのみが本拠地として使用。 現在においても野球場など各種施設では入場客の導線に階段を使用しているものが大半で、スロープを使用している所は(本拠地)などまだ少数である。 ただし、開場した1962年には例外的に巨人の主催公式戦が行われた。 その後もオープン戦でオリオンズ対巨人戦が行われたこともあった他、前述の通り1970年にリーグ優勝した際もの対戦相手が巨人であり、さらに国鉄・サンケイの主催試合で対巨人戦も行われていたため、巨人が全く本球場を使用していなかった訳ではない。 ちなみに1970年の日本シリーズは巨人が本球場で日本一を決めた(巨人V9時代の6年目)。 屋内にブルペンを設けたのは本球場が最初だった。 以降に建設および改築されるプロ野球の本拠地球場は両翼99. 058m、中堅121. 918mを必要とする。 本球場の他、電光化された後の後楽園球場のスコアボードでも醍醐の現役末期にはカタカナで「ダイゴ」と表示されていた。 出典 [ ]• 沢柳政義『野球場大事典』大空社、1990年、p. 289。 著者の沢柳は設計時に自身がソフトフェンスの導入を提案していたと記している。 朝日新聞デジタル、2019年9月21日• - 元副社長、代表清算人。 - 本球場の跡地に建設された施設。 外部リンク [ ]•

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歴史 [ ] かつて東京スタジアムがあった荒川区南千住には、に操業を開始したがあった。 同工場は戦後は民間に払い下げられ、が所有する生地工場となったが、に入ると業績が悪化。 として使用していたの枯渇や様々な規制、の慢性化などによって経営難に陥り、に閉鎖された。 工場跡地の一部は(名鉄)が取得し、「」の建設用地として使用することが計画されていた。 なお、「明治村」はその後、に建設された。 一方、当時のは(巨人)、、毎日大映(大毎)オリオンズの3球団がを本拠地としていたため、日程の過密化が常態化していた。 このうち大毎のオーナーだったは私財を投じて自前の本拠地球場の建設を計画。 都内各所を自ら視察した結果、一度は深川の東京ガス運動場を建設地とする案が有力だったものの直後に破談となり、改めて南千住の大和毛織工場跡地を建設地に決定した。 かねてから「に自前の球場を造りたい」と漏らしていた永田は工場閉鎖前からこの地を視察で訪れており、水面下で用地取得を画策していたと言われている。 当時の大映は産業の斜陽化などで経営難に陥りつつあったが、永田は用地を取得し、建設工事は7月に着工。 わずか1年足らずのに竣工し、「東京スタジアム」と命名された。 、全6球団がスタジアムに集結。 午後4時から盛大に開場式を執り行い、永田は席上で「皆さん、パ・リーグを愛してやって下さい! 」と満員(35,000人)に膨れ上がったスタンドに向かって絶叫した。 「大リーグのボールパークのような最先端の設備を有しながら、庶民が履きで気軽に通えるような球場」という永田の壮大な構想が具現化した、彼にとってはいわば「夢の野球場」だった。 初のプロ野球公式戦は同日午後7時試合開始の大毎オリオンズ対7回戦で、球場第1号本塁打は同試合でが放った。 こうして東京スタジアムは「最新のプロ野球専用球場」として開場した。 オリオンズ以外にも、1962年と1963年のおよび1964年以降の国鉄スワローズ(後のサンケイ、ヤクルト)も、本来のがであり、優先の関係で、などごく限られた機会で本球場を利用したことがある。 また、など他の球団の主催公式戦も不定期で開催されていた。 永田はさらにのシーズンよりオーナー企業名を排して都市名を冠した「東京オリオンズ」に改称。 しかし、当時のオリオンズは低迷期で、開場年の1962年は4位。 以降5位、4位、5位、4位、5位と苦戦していた。 また、当時は巨人が黄金期()を迎えていたこともありプロ野球人気はセ・リーグ偏重の傾向が強まっていた。 年間観客動員数も開場初年度こそ70万人を突破して盛況を見せたものの、その後はジリ貧に陥り、スタジアムの建設費を減価償却できない経営状態が続いた。 なお、の最終戦はとので、両試合とも観客が200人だった。 、菓子メーカーのを冠スポンサーとし、「ロッテオリオンズ」に改称。 、10年ぶりのリーグ優勝をこの東京スタジアムで決めた試合終了の直後、観客やファンがスタンドから次々とグラウンドに乱入するや、選手に先立って永田を胴上げ。 さらに「」の歌声が夜空にこだました。 翌、大映は球団の経営権をロッテに譲渡し、本社の経営再建に乗り出すものの倒産。 関連子会社の東京スタジアムも累積赤字が約15億円にまで膨らみ、経営権は1972年に社主のの手に移った。 だが小佐野は「このまま貸し球場として所有していたのでは採算が取れない。 球団と球場は一体的に運営するのが理想」として、ロッテにスタジアムの買い取りを求めた。 しかし、ロッテはこの案に難色を示し、賃借契約の継続を要請。 スタジアムの使用を巡る交渉は終始平行線を辿った。 結局、の段階で交渉は事実上決裂。 小佐野は「球場は廃業するので、来季以降は使用できない」とし、東京スタジアムは同年限りでの閉鎖が決まった。 開場からわずか11年目のことだった。 同年、ロッテの主催公式戦の観客動員数は年間65試合で31万人にとどまっていた。 最後のプロ野球公式戦はの対戦だった。 本拠地を失ったロッテは翌から1977年まで、の を暫定本拠地とし、からに落ち着くまでの間、首都圏(後楽園、、川崎)や()などを転々としながら主催試合を開催していた。 なおこの間、にはリーグ優勝し、も制して日本一にも輝いている(この間のロッテについてはを参照)。 主を失った東京スタジアムが閉鎖された後、1973年には法人格としての株式会社東京スタジアムも解散した。 同年末にが土地および施設を取得。 「オリオンズが帰ってくる」と囁かれたものの、これも頓挫。 その後1977年3月に東京都が跡地を取得し、4月からスタンドは解体された。 跡地は大半が荒川区の管理する「」となっており、体育館や軟式野球場などがある。 一部は移転したと都民住宅の敷地となっている。 光の球場 [ ] 東京スタジアムの設計のモデルとなったのはのにあり、かつての本拠地だった で、場内に設けられた6基の照明塔は当時日本では一般的だった送電塔のような無骨な鉄骨作りではなく、2本のポール型鉄塔がサーチライトを支えるという当時としてはモダンな構造だった。 二層式の内野スタンドに設置された製のは、エリア別に青(外野席と一・三塁側内野自由席)、黄(一・三塁側内野指定席B)、赤(年間指定席を含む内野指定席A)に色分けされ、シートピッチが広く取られていたため「ゆったり座れる」と評判だった。 1階スタンドと2階スタンドの間には、日本の野球場では初の席が67席(うち1、ゲストルーム4)設けられた。 スコアボードにはが出ると「HomeRun」と書かれた電光看板が点灯する演出もあった。 また、スコアボードに設置された大時計は当時としては画期的な式であった。 フィールドは外野だけでなく内野のインフィールド部分にも天然芝が敷設され、ファウルエリアは球場敷地が狭隘なためやや狭く、内野フェンスも低かったが、「選手がすぐそばに見える」と観客には好評だった。 エントランス部には式の通路を採用し、観客を地平部からスタンド下の通路に直接誘導する手法が用いられた。 これは観客と選手、関係者の動線を分離してスムーズな入退場が行えるよう配慮して設計されたものだが、現在で言うところのにも通ずる概念であると評価する向きも多い。 開場前の1962年、夕方から雨中で行われた照明設備の点灯テストで、当時としては高照度の1600lxの灯に照らされたスタジアムを見て、永田オーナーは記者陣を前に「どうだ。 これだったら後楽園球場もビックリだろ」と高らかに笑って見せたという。 永田は当時セ・リーグ、とりわけ巨人に対して強烈なライバル意識を持っていた。 その一端を示す事柄として、他のセ・リーグの首都圏球団である国鉄(後にサンケイ、ヤクルト)や大洋には東京スタジアムでの主催試合開催を許可したものの、最も収益が期待できるはずの巨人にだけは、基本的に最後までスタジアムの貸出を拒否し続けたということが挙げられる。 スタンド下には選手用の設備が充実していた。 内野スタンド下に設けられた幅約6mで2人が同時に投球できる屋内ブルペン をはじめ、ダッグアウト裏にもトレーナー室や医療室など諸室が整っていた。 最も好評だったのはロッカールームで、当時オリオンズに在籍していたは「それまで(後楽園など)は隣の選手と身体をぶつけながら着替えていたが、東京球場ではのんびり椅子に腰掛けることもでき、隣席のと小遣いを出し合ってを置いて、試合後に火照った身体を癒すやがおいしかった」と振り返っている。 また、選手専用の食堂も広く取られ、内装もよく、メニューも充実していたため、選手からは「銀座の一流料理店みたいだ」と評判が高かった。 これらの諸室は現在では多くの本拠地球場で整備されているが、このような大リーグ式の環境に当時の選手、特に設備の大きく劣る球場が多かったパ・リーグの他球団の選手からは大喜びされていたという。 また、開場当時の外野フェンスはコンクリート製であったが、選手が激突して負傷する事故が起きたため、1966年3月に日本の球場では初となるラバーフェンスが導入された。 しかし、前述の通り敷地が狭隘であるため、フィールドは狭かった。 で定められた広さ を無視して設計された両翼90m、中堅120mのフィールドは当時の後楽園球場(公称値)と同じだったが、左中間および右中間が一直線で膨らみが全くないため、「本塁打量産球場」とも揶揄され投手には不利な野球場だったが、永田は「打たれたらその分、ウチ(オリオンズ)が打ち返せ」と意に介さなかった。 その中で、その狭隘さをものともしなかった投手がだった。 小山は「針の穴を通す」と評される抜群の制球力が持ち味だったが、秋にとの交換トレードで阪神タイガースからオリオンズに移籍した当初、周囲からは「狭い東京球場に移る小山が圧倒的に不利」と懐疑的な評価が下された。 だが、小山は狭隘な東京スタジアム対策としてを駆使し、移籍初年度の1964年に30勝を挙げて同年パ・リーグのに輝くと、1973年に大洋に移籍するまでオリオンズのエースとして活躍した。 当時の南千住にはなどのはなく、低い平屋や二階建ての住宅が建ち並ぶ下町の街並みに忽然と現れた巨大なスタジアムから、夜になるとナイター照明が放つ光が周辺に瞬く光景からしばしば「 光の球場」 とも形容されていた。 しかし、一方でナイター終了後に照明が消えるとが一斉に周辺の民家になだれ込んだため、一種の公害にもなっていた。 多目的球場 [ ] 東京スタジアムにはこの他、左翼スタンドから三遊間後方に掛けての地下にはも併設されていた。 シーズンオフには内外野のスタンドの椅子席の上にを設置、巨大な屋外スケート場となっていた。 開場当時は「球場の地下にを引っ張って来たい」「や、も併設して総合レジャー施設にしたい」などといった壮大な構想もあったが、これらは実現には至らなかった。 しかし、東京スタジアムの先駆的な設計手法は後に日本全国で建設された野球場の設計に多大な影響を与えている。 スケートリンクはグランド上にフィギュアリンク、スタンド上に400mの周回路が作られ、400m周回路のみスピードスケート靴の滑走ができた。 フィギュアリンクはフィギュア、ホッケー、ハーフスピードの靴でのみ滑走可能だった。 なお、このため毎年春と秋に行われるオリオンズの練習は、スケートリンクのやぐらの下でランニングやキャッチボール程度の軽いものしか行えなかった。 主なエピソード [ ]• 開場式当日、場外には入り切れなくなった観客が溢れ返っていた。 これは後に発覚したことで「球場開きに観客が少ないのは恥ずかしい」と関係者らが球場周辺に約15万枚の無料入場券を配布していたことによるものであった。 1971年夏、は本球場での試験販売を行ったが、これはで初めてカップヌードルが販売された場所であるといわれている。 本球場竣工の翌年(1963年)に竣工したののメインスタンド入口は本球場と同様に地平部とスタンドとをスロープで連絡する方式が採用されているが、設計段階で本球場を意識したものであるか否かは不明である。 醍醐猛夫が在籍した当初、手書きパネル型のスコアボードでは「醍醐」の文字の画数が多く見づらくなるということを考慮し「ダイゴ」とあえてカタカナで書いたことがあった。 夏場には旧が本球場で興行を行っており、がとシングルマッチ初対戦を行ったのは1970年9月5日の本球場での興行であった。 施設概要 [ ]• 敷地面積:34,321m 2• グラウンド面積:12,180m 2• 両翼:90m、中堅:120m• 内野:クレー舗装及び天然芝(ティフトン)、外野:天然芝(高麗)• 照明設備:鉄塔6基• 収容人員:35,000人(公称)• スコアボード:パネル式。 イニング表示は10回までで、得点・安打・失策数の表示あり。 両サイドに横書き・縦スクロールによるメンバー表記(一塁側は選手名の右側に守備位置を表記。 また、球団名が「ロッテオリオンズ」になってからは「ロッテ」のチーム名表記はロッテの企業ロゴを真似たものとなった)。 スコア下部はカウント・ジャッジを挟んで他球場速報やアマチュアで複数の試合が開催された場合の試合結果を表示できる掲示板があった。 また上部には右端にデジタル時計、その左側に本塁打が出た場合の電飾看板が設置されていた。 審判は左右広告部のそれぞれ下段に3名ずつ(左側 - 主審および一・二塁塁審、右側 - 三塁塁審および左・右線審)表記された。 当時の交通アクセス [ ]• ・から徒歩約8分• ・南千住又はから徒歩約7分• 都電21系統(千住4丁目 - 水天宮前)• 都電27系統(三ノ輪橋 - 赤羽)現在の• 都電31系統(三ノ輪橋 - 都庁前)• 又はから徒歩約5分• この他、スタンド前のエントランス広場はの折返場となっていた。 東京スタジアムが舞台となった作品 [ ]• - 第11話「先輩後輩」で、場外でロケを実施。 - 第35・51話のロケで使用。 後者では「東亜スタジアム」の名が使われている。 - 生徒たちが暴力追放集会を行うシーンで使用。 - 本球場を舞台とした「光の球場! の巻」を第82巻に収録。 でも「光の球場」が放送された。 参考文献 [ ]• 『プロジェクトX 挑戦者たち 起死回生の突破口 魔法のラーメン 82億食の奇跡 カップめん・どん底からの逆転劇』((2002年5月30日刊行本が底本)、NHKプロジェクトX製作班編、日本放送出版協会、2004年3月9日) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 1973年は保護地域が東京都のままだったため準本拠地扱い。 現在の呼称は「楽天生命パーク宮城」(本拠地)• その後、のとの兼用を経て - までは49ersのみが本拠地として使用。 現在においても野球場など各種施設では入場客の導線に階段を使用しているものが大半で、スロープを使用している所は(本拠地)などまだ少数である。 ただし、開場した1962年には例外的に巨人の主催公式戦が行われた。 その後もオープン戦でオリオンズ対巨人戦が行われたこともあった他、前述の通り1970年にリーグ優勝した際もの対戦相手が巨人であり、さらに国鉄・サンケイの主催試合で対巨人戦も行われていたため、巨人が全く本球場を使用していなかった訳ではない。 ちなみに1970年の日本シリーズは巨人が本球場で日本一を決めた(巨人V9時代の6年目)。 屋内にブルペンを設けたのは本球場が最初だった。 以降に建設および改築されるプロ野球の本拠地球場は両翼99. 058m、中堅121. 918mを必要とする。 本球場の他、電光化された後の後楽園球場のスコアボードでも醍醐の現役末期にはカタカナで「ダイゴ」と表示されていた。 出典 [ ]• 沢柳政義『野球場大事典』大空社、1990年、p. 289。 著者の沢柳は設計時に自身がソフトフェンスの導入を提案していたと記している。 朝日新聞デジタル、2019年9月21日• - 元副社長、代表清算人。 - 本球場の跡地に建設された施設。 外部リンク [ ]•

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